雑記9

自分は見たこと無いのですが、静かな水面に花粉を置くと、ふらふらと動くそうです。

ブラウン運動と呼ばれています。

花粉のように軽いものだと水素分子の運動に影響されるそうで、それが為に独りでに動くそうです。

 

自分の書いているものを読み返してはいないのですが、

どうもそのようにふらふらと動いているようです。

 

書いても意味はないし、書かなくても意味はない。

何事かをなす事に意味を求めること自体が愚かなことですが、どうしてもまだ怯みます。

まぁ、そんなこんなと色々あって生きてゆこうと思う次第です。

 

先日書いた重み、の話ですが補足します。

どうもこの重みという言葉を通してみると、人間の歴史というものの断面が見えてきます。

歴史上の偉人を人は偶像化し、崇拝に似た気持ちを抱くかと思います。

最近はどうも過去だけでなく、現在の偉人に対してもそういった感情をいだくかと思います。

 

最近は、というのも変な話ですが、リアルタイムに偉人が一般人に知られるようになったのはここ最近の話です。

日本では西郷隆盛が初めのようです。

それ以前の人はその階級の人だけ、その地方だけというローカルなものになります。

 

話を戻します。

そういった偉人と変人との境は何か、良く天才と変人は紙一重だ。と言います。

どうやらどちらも一般の人に比べて何かに対して異常に重み付けがなされている人、という事ではないでしょうか?

孔子は、その物事が好きな人間には到底かなわない。というような言葉を残しています。

好きという異常な重みが寝食も忘れさせ、絶えずバイアス(フィルタ)のかかった視点で物を見るようになります。

知覚したことの大半が一点に集中すると、当たる確率が高くなる。と、変な言い方ですが、

新たなブレイクスルーを創りだすきっかけが出やすくなる。ということかと思います。

 

宝くじで当選する人の大半は宝くじを買い続けている人だそうです。

若干関係ありませんが、要は確率の問題です。

 

そして、そういった個人が対象とするものは、外界です。他人の集団、世間です。

その重みで形成されたものが世間的に役に立つ、あるいは共感を呼ぶものであれば、認められ天才と呼ばれます。

そうでない場合は奇人、変人と呼ばれます。

 

そして、世間というものが持つ常識は時代により180度も変わり、場合によってはさらに180度かわり元に戻ることもあります。

どうも最近は歴史上の人物や、現存の偉人と呼ばれる人たちに対して個人的に思ってしまうのですが、

おもろいおっさんだなぁ。という感想しかありません。それで十分のような気がします。

 

最近中国では子どものDNAを調べてその子の特性を予め知っておく、という事が流行っているそうです。

中国人らしい、都市化社会ならではの発想です。

 

どんなに優れた道具も使いこなせなければ役に立たず、どんなに使い勝手の悪い道具でも体を慣れさせれば十二分に役に立ちます。

はじめから優れていたほうが良いじゃないか。という意見が出そうですが、ヒトゲノムが解析されたとはいえ、

人はおろか、大腸菌すらも人間は作ることができません。

遺伝子の研究をしている人から言わせると、遺伝子以外に何か情報が存在しない限りは生命を作り出すことはできない。と言います。

 

人を育てるのは教育です。

幼い頃の衝撃は良くも悪くも人生に大きな影響を与えます。

そういう意味で言うと宝くじと同じで、いい衝撃に出会うのは運の要素が必要。ということが言えるかと思います。

じゃあ、運ならなんともしようがないじゃないか。となりますが、どうもこれも違うようです。

 

やはり宝くじにつながりますが、続けることに意味があります。途中で終わればそれまでです。

生命体である限り、心配しなくても死亡率は100%で、明日はこの世にはいないとも言い切れません。

そんなことを考えても意味はなく、ただただ続けることに意味がある。むしろ続けることしか方法が見つからない。

後ろ向きなのか前向きなのかもよくわかならいですが、そんな思いをいだきます。

 

恐らく多くの現代日本人がそうであるかと思いますが、自分も多分にもれず数学が苦手です。

これは現在学校で教えている数学に問題があるかと思います。

入試試験を前提に作られた問題は、人をふるい落とすことを目的としているので、意地が悪く作られています。

そんなものに接してまともに取り合うほうがどうもおかしいようです。

そんな中でも数学が好きな人とは、恐らく早いうちに良い衝撃に出会えたのだろうと思います。

 

学校を卒業して独学で色々と勉強してゆくと、目からウロコがたくさん落ちます。

もっと若いうちに知っておきたかった。などと思っても意味のない事です。

 

どうも学校では答えのあること、もっと言ってしまうと、多くの人達が認める仮説がある程度の答えとして認知できるものを

正解とし、それを羅列しているだけのような気がします。

その中にあって、確たる答えを出すところに数学の魅力があるのかと思います。

 

どうもそういった学校教育を受けていると、全てのものに答えがあると錯覚してしまいます。

自分もかつてはそう思っていました。

本当の自分とは何か?本当の人生とは何か?

 

今のところ自分が出した答えは、その答えは自分以外に知り得ない。

自分が知っている範囲でしか分からない。

たくさんの知識を得たところで面積という連続量が増えるだけで、分割量である個人の1は変わりません。

よって、その答えは自分が知っている。それが答えだ。

と、強引につなげるとこうなります。なんだか証明問題を思い出しました。

 

仮説についての面白い話を思い出しましたが、長くなるのでやめておきます。

Sculptris – 13

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気晴らしに動物と人間をくっつけてみよう。と思ったのですが、思っていたほど面白い形にはなりませんでした。

もっと経験が必要なようです。

 

昔絵を学んでいた頃に先生に言われた言葉が頭をよぎります。

陶芸では、轆轤と捻り、という表現方法があるそうです。

轆轤は、どんな不器用な人間でも時間をかければかけるだけ上手くなる。

ひねりは感性の問題で、時間をかけても上手くなるかは分からないものだ。

職業として選択する場合、つまらないけど確実な轆轤を選ぶか、面白いけど産みの苦しみを毎回味わう捻りが良いのか、

それはその人の選ぶ道だ、ということだったかと思います。

 

物を見て作るのは轆轤にあたります。

簡単に行ってしまうとデッサンです。

捻りというのは絵画で言うならば、現代絵画でしょうか。

 

今回のものは捻りの部類に属すると思うのですが、どうやらまだまだ抜け出せない。

と言った感じでしょうか。

なんかもっと、バーンと。とディレクターなりに言われそうです。

分かっちゃいるけどなぁ、と思いますが、なんともなりません。

 

物理学で言うと実在論の実験物理学と、実証論の理論物理学に相当するように思います。

実験物理学者は理論物理学者を批判します。

物理学者が数学者を批判することと似ている気がします。

 

式や数値でなく、そこにある事が重要なわけで、自分の目で見て感じ取る。

恐らく実験物理学者はそう言うかと思うのですが、物理学自体がもはや理論物理に移行しているように思います。

 

そういえば、古代ギリシアの哲学者ソクラテスも数学者を批判しました。

数に意味はない。と、

その弟子であるプラトンは数学に真理を求めていたそうです。

 

そのプラトンはイデアという概念を作り出しました。

簡単に訳してしまうと、真理。というものだと思います。

喩えを出していましたが、我々は暗い洞窟の中に向かっているようなもので、外にあるイデアから発せられている

光によって出来る影を見ているだけだ。

我々が普段目にするものは全てがイデアに関連付けられており、花が綺麗なのは、綺麗、というイデアに関連されており、

花が枯れてもイデア自体は何ら影響を受けることなく、存在している。

 

イデアを真理、と置き換えると、そんなもんかなぁ、と思えなくもないです。

そしてまた、我々は生まれる前からイデアを知っていて、生まれるときに多くの情報が失われるが、本質的な部分を理解出来ているから

お互いに言葉が通じる。とも言います。

 

ここまで来ると脳化している。と思ってしまいます。

人間は抽象的な表現を手に入れることで発展してきました。抽象的とは三本の木と、●●●を同一化させることです。

さらに進んで数学の代数となりました。

この同一化の機能は脳の特有の機能で、言語と金銭に顕著に現れます。

どちらも異質のものを単位で同一化させます。

 

言葉が通じるのはあくまでも個人の経験則で、同じりんご、という物を想像しても頭で描くりんごは当たり前のように個人で違います。

思想が発達するとそういった当たり前の差異を認めることができないようになり、争いに発展します。

 

養老さんが言うにはそれこそが脳化社会だ、と診断を下します。

それに対して、じゃあどうすればいいんだ、という質問をよく受けるそうですが、それこそがバカの壁だ。と切り捨てます。

要は無限大に知り得ない自然を前にたった1.5キログラム程度の小さい脳みそで考えたことを適用するべきではない。

ちょっと乱暴ですが、そういう事だと思います。

 

雑記を書くつもりは無かったのですが、結局雑記になりました。

 

image651l

女性の方はこんな感じです。

やはりこういったツールでは男を作るほうが楽しいです。

しかし、白人の骨格の綺麗さは何なのでしょう。ギリシア人は白人ではないですが、やはり骨格は日本人より綺麗だと思います。

イデアという考えが出てくるのが分かるような気がします。

だからといって卑下する必要もなく、日本のアニメと外国のアニメは違うものを表現している。と個人的には思っております。

雑記8

前回の記事での間違いを妻に指摘されました。

現在は戦後65年です。

2010-1945=65

確認のため、わざわざ計算機で計算したにもかかわらず、間違えました。

 

なぜだろう?と考えたのですが、

どうも頭の中で、10年以上前に戦後60年、とテレビで言っていたかな?と

勝手に思い込んでおりました。

 

バイアスがかかっております。

 

バイアスとは重み、で人だけでなく自然界に存在する法則です。

計算を単純にする機能を持ちますが、このように間違えたりもします。

 

少し前に記事で見ましたが、猫や犬だけでなく、魚にも利き方向があるそうです。

これも重み付けがされている。と言えるかと思います。

 

西洋にはビュリダンのロバ、という言葉があります。

ロバというのは西洋では馬鹿な動物、という意味だそうです。

ピノキオもロバになりかけます。

 

ビュリダンというのは話を考えた人の名前です。

その話というのは、ロバの数歩前に二つの等量の干し草の山を等距離に置くと、

ロバはどちらを食べるか決めることができずにその場で餓死する。という話です。

 

何を馬鹿な、と言った感じですが、コンピュータに常日頃接している人には割と身近な事なのではないでしょうか?

コンピュータは重みを持ちません。ループ計算を永遠とし続けます。まさにロバです。

AIを作るプログラマに言わせると、計算を早くするにはバイアスをかければ良い。と言います。

modoのレンダリングも特定のピクセル単位で重み付けされた放射照度キャッシュを使うことで早くなっているのだと思います。

全てに均一の重さで計算するモンテカルロより大抵早く計算できます。

恐らくCGのレンダリングは今後より人間に近づくのだと思いますが、そうなってくると個人的な物の見方、

というものが出てきそうです。

そこにある普遍性というのは統計学なのでしょうか?果たして本当の真理、というものがあるのでしょうか?

どちらも怪しい感じがしますが、どちらにせよ楽しみです。

 

養老さんはこの、重みについて係数aとし、式にすると、y=axとなる。と書いていました。

aに10入っている人、それに興味がある、もしくは好きである。という場合、xに10を入れる、要するに10の事を教えると、

y=10。一言えば十分かる。と言っていたかと思います。

その逆にaが0であれば、xに100を入れてもyは0で、馬の耳に念仏。と言った感じでしょうか。

 

どうもこの重みというものは生命の進化においてとても重要な役割を果たしてきたようです。

それが意味することは、好悪の感情というのは非理論的で、原始的なものだがそれを抜きに物を考えることは不可能だ。

という事になるのではないでしょうか?

 

自分は近代的、西洋文明的、と表現しているものを、養老さんはさらに一歩進め、脳化社会、都市化社会と表現します。

それらの意味するところは、結局のところ自然と乖離してしまった人間。という事だと思います。

生物は大抵表皮面積に比例して脳が大きくなります。鯨の脳みそが大きいのは当たり前の話です。

人間はその比率に反し、脳みそがチンパンジーの三倍ほど大きくなりました。たかが三倍、でしょうか?

 

その脳みそで考える理論的な思考は人間の発展に大きく寄与しました。

しかし、どうにも近似でしか核心に迫れないようです。

自然というものを一言で表現するのであれば、人間が知っていること以外全部。だと思います。

言い方を変えると、人間が知らないこと。となり、さらに言い方を変えると、「私は知らない、という事を知っている。」

と言ったのはソクラテスです。

そして、「この世界の事は、知れば知るほど分からないことが増えてゆく。」と言ったのはファインマンです。

 

ソクラテスは友人が受けたご神託である、この世で一番の賢者はソクラテスである。という事を検証するため、

当時の有徳人に論戦をふっかけ、さんざん打ち負かし、それが元で恨みを買って処刑されたのだろう、と言われています。

 

彼は独自の神を信じてようで、ダイモン(deamon)と言っていたそうです。

それは間違えたことをすると、頭に直接話しかけてくるそうで、現代医学で言うとてんかん発作だろう。という話ですが、

その神の教えを守り、死んでいったそうです。

一昔前はメールアドレスを間違えて送信するとMailDeamonから機械的な返信がありました。

勝手な想像ですが、昔のコンピュータの世界はマニアックで、そういった故事から引用する事が多かったので、

そんないたずら心なのか?と思っていましたが、真相はどうなのでしょうか?

 

話が飛びました。

どうも、この理知的な考え、と感情的な考え、という二つの全く異質なものを結びつけることが人間が今後進むべき道なのでは?

と個人的には思います。

 

うーん、なんだかどれも中途半端で薄っぺらい話で終わった気がします。

元の本があるから自分が各必要は無い。という気持ちがそうなっているのかも知れません。

どれも原典が分からないので、紹介のしようもありませんが。

すみませんが、しばらく備忘録といいますか、考えをまとめるためにこの場を使わせてもらいます。

今しばらくお付き合い下さい。

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