雑記30

先日紹介した「ローマ人の物語」について、補足します。

 

著者の塩野さんが書かれているように、一人の人間が書く通史は偏りがちになるが全体像を把握するには一番いい。

と、ありました。

本を読むと分かりますが、この方は古代ローマ人に惚れ込んで書いております。

なので、全くないわけではありませんが、古代ローマのよろしくない制度については余り言及されておりません。

 

なので、より一層の理解を求めるのであれば、その他の資料も必要となる事はもちろんです。

しかし、ギリシア、ローマを否定するキリスト教はローマ帝国滅亡後それらの大半を破壊してしまいました。

近年では史料的な理解よりも考古学的な理解により、古代ローマが再認識されております。

 

しかし、デッサンを学んだ人はおなじみだと思いますが、石膏デッサンで使われる石膏は皮肉にもギリシア、ローマの物が大半です。

ルネッサンス期にミケランジェロを始め、当時の美術を再認識する熱が高まりましたが、時すでに遅し、という感じでしょうか、

壊されているものが大半を占めるようになってしまったことは残念なことです。

 

そして、塩野さんという方は現在フィレンツェに住む女性で、養老さんがどこかで書かれておりましたが、同い年だそうです。

終戦時に小学二年生であった、彼らは昨日まで学校で教えられていたことが、今日になり全てが間違いであることを宣告され、

物資の乏しい中、そのままの教科書を使い、世界が変わり教科書の間違っているとされている部分を墨で塗りつぶして授業を行ったそうです。

 

なので、この世代の人達は共通するものがある、と書かれておりました。

年端も行かない、教えられることが全てである時期に、全否定されることで世の中に対する見方が変わった、とあります。

それ以上上の年代になると、戦時中の雰囲気を残し、それ以下になると現代的な雰囲気になるそうで、世代はかなり限られているそうです。

 

塩野さんもどこかで書いておりましたが、ご自身をへそ曲がり、と書いていました。養老さんはひねくれ者です。

なるほどなぁ、と妙に納得してしまいました。

お二人の本を読むと、つい同じような反応をしてしまいます。恐らく人がいないところであれば爆笑しているかと思います。

 

ちなみに塩野さんの面白い本ではこんな物もあります。

 

残念ながら絶版となっております。

読んでいて思わず仰け反ってしまう面白さです。

イタリアで共産党が選挙によって連立与党になり、共産党が掲げる暴力による革命なくして政権を握った当時、

フィレンツェでは至る所で赤い旗が翻り、不思議に思った著者が取材を始め執筆したものです。

 

そのなかで、呆気無く喝破しておりますが、共産主義というものは宗教でしか無い。と書かれております。思わずのけぞります。

しかし、よく良く考えてみると日本において、選挙時期以外にポスターを見かけるのは共産党ともう一つくらいであることを思うと、納得させられます。

 

さらに面白いのが、社会党というものはどこの国でも変わらず、センチメンタルな理想主義者の集団でしか無い。と言いきります。

イタリア共産党が政権を取った際にも連立与党として入閣しますが、与党にあって野党のように振る舞い、政権運営を省みず理想を追求し、政府を混乱させる。と、あります。

あぁ、なるほど、心当たりがあるような。

 

あくまでも一つの見方ですが、それによって今まで分からなかったことが、心情的に妙に理解できたりします。

報道などでは難しい言葉で埋め尽くされて、感覚的な理解に及ばない事が多々あります。

結局人間が行っている事なので、そんなに奇想天外なことはありません。そういったことを教えてくれる、という意味では君主論や孫子の兵法に通ずる部分があるかも知れません。

 

そういえば、孫子の兵法といえば、稀に誤訳(?)を見つけます。

敵を知り己を知る者は必勝まちがいなし。と、極端なものはここまで言い切ります。

孫子が言わんとしている事は、敵を知り己を知る者は百戦危うからず。と、百回戦っても危なっかしくは無いよ。と至極つまらないことを言っています。

しかし、これもいかがなものかと思います。

太平洋戦争当時、太平洋に浮かぶ島を占拠した日本をアメリカが追い出しました。

そのなかで、アメリカ軍が日本兵の宿営地跡を見て日本兵の数を概算したそうですが、実際の兵力の三倍を見積もったそうです。

数の根拠となったものは、大便の量でした。

肉食のアメリカ人に比べ、草食の日本人は大便の量が多かったようです。

それに加え、当時のアメリカは偵察部隊であろうと、現地で食料が調達できるように宿営地に畑を作り芋を栽培していました。

皮肉にもその畑に助けられた日本人もたくさんいます。

 

知る、ということは情報の取得とそれの解釈、と分解することが出来るかと思います。

この場合大便の量、という取得された情報は間違ってはいなくても、解釈の部分で違いがあったのかと思います。

その解釈の大元にある部分が思想であり、当時のアメリカは非常に慎重に物事を進めていた事が理解できます。

 

それも、養老さんに言わせれば、当時のアメリカは良いとは言えないが、日本よりはまだましだった。となります。

頭の上に焼夷弾をさんざん落とされたのだから、それはそうなります。

雑記29 – 「ローマ人の物語」

度々ローマ帝国の事を書いているので、この本を紹介します。

ローマ帝国について、それまで大した知識もなく、自堕落により滅亡した文明、という現代的というかキリスト教的な予備知識くらいしかありませんでした。

この本を読むと、その先入観がローマ帝国崩壊後のキリスト教が作り出した先入観であることが分かります。

もっとも自堕落的な部分ももちろんあるのですが。

 

10巻がローマ帝国のインフラについて述べられている、というのでインターネットから図書館で借りてみました。

大して興味が無かったので、確認もせずに借りたのですが、自分が借りたものは単行本ではなく、文庫本でした。

その文庫本の10巻がこのユリウス・カエサルでした。

 

ページを捲って、しばらくして間違えであることに気がつき、ショックを受けたのですが、あまりにも面白いのでそのままスラスラと読み進めてしまいました。

読んだ後になり、このような人物を生み出した文明に興味を持ち、始めから読み出しました。

 

殆ど東洋の歴史しか知らなかった自分にとって、ローマ帝国というものはとても異質でありながら、日本に似た様な部分が多々あり、驚きました。

どうやらその根本は、ローマはギリシアの文化を崇拝する部分があり、ギリシアはアジアの文化も入っているからなのか、と感じました。

 

そして、ローマを語る上で欠かせないものが、カエサルの存在と並んでポエニ戦争があります。

 

イタリア半島を収めたローマは、それで満足したようで、他国からの参戦要求をつきはねましたが、カルタゴ(現チェニジア)に侵略されつつあった

シチリアのシラクーザからの参戦要求に応え、ポエニ戦争へと突入してゆきます。

イタリア半島から1キロと離れていないシラクサを獲られることへの危機感ですが、元老院で否決された参戦決議を市民集会で可決しました。

国が駄目だと決めても国民が行くと決めた。なんだか凄まじいパワーです。

当時のローマは国民皆兵で現場で戦う国民のほうがそれを指揮して戦う元老院よりもシラクサの重要性を理解していた。と著者の塩野さんは語ります。

 

第二次ポエニ戦争では、カルタゴの智将ハンニバルがイベリア半島から陸路ローマに侵入し、その後数十年間イタリア半島に居座り続けます。

その間度重なるローマの攻撃を蹴ちらしますが、彼の戦術を学び、他国の人々を味方に付けたスキピオ・アエミリアヌスにより破れます。

読んでいるとRPGゲームのようです。

 

その後カルタゴを破ったローマは地中海の西側を制圧し、大国へとなってゆきました。

元老院議員は自ら商売をすることはできなかったそうですが、解放奴隷の名義で次々に土地を買いあさり、農場の巨大化が起こったそうです。

皆兵制度である、ローマではローマ市民であるとともに、戦士でもあり、個人農家でもあります。

大農場かすることで、農作物の値段が下がり、彼らの生活を直撃し、借金が返せなくなった彼らは都市にて無産者階級となり治安が悪化していったそうです。

 

そんなか、護民官という市民から選ばれ国の決定に対して強力な拒否権を持つ官職からグラックス兄弟という正義感に燃える若者二人が登場します。

訴えるものは、国土の再編成でした。

しかし、時期尚早だったようで、元老院議員によって殺害されてしまいます。

 

司馬遼太郎さんは晩年国土の国有化を提案しておりました。

今は知りませんが、当時は中国地方の山々を一人の人物が所有していたそうです。丁度住専問題の時でもありました。

土地をお金儲けに使ってはいけない。というのが司馬さんのメッセージでした。

 

それを考えると、ヨーロッパではすでに紀元前にその問題が提起されています。なんとも凄まじいものです。

さらに労働者問題となると、その歴史はさらに古く、紀元前三千五百年頃のシュメール文明まで遡るようです。

作物の余剰生産により、一部資本家が労働者を雇いさらなる農地を開拓する。今と余り変わりません。

 

古代ローマでは凱旋式というものがありました。その後のヨーロッパでも模倣されていますが、ローマ式はちょっと特殊です。

軍隊の後に将軍、獲得した領地を示す戦利品や場所や戦利品を書いたプラカードが続き、シュプレヒコールを上げる隊長たちが続くそうです。

そのシュプレヒコールは隊長たちが独自に考えるそうで、大抵は将軍を称えるものだそうですが、カエサルの場合は、

「ハゲでスケベな将軍のお出ましだ、市民共よ女房を隠せ」だったそうです。

事前にそれを聞いていたカエサルが出した注文は、ハゲというのはやめてくれ、だったそうです。

そっちかよ。と思わず突っ込んでしまいます。注文が聞き届けられることは無かったようです。

 

将軍は4頭立ての戦車に乗っているそうですが、そこには将軍の奴隷も一人乗るそうです。

その奴隷は「死にゆく宿命である人間であることを忘れるな!」と叫び続けるそうです。

驕る者は久しからず。なんだか似てませんか?こじつけ過ぎでしょうか?

雑記28

前回の「アメリカン・デモクラシーの逆説」にあった、ゲーテッド・コミュニティとスーパーキャピタリズム(超資本主義)について書いてみようかと思います。

 

まずは、ゲーテッド・コミュニティというものですが、名前のとおりゲートで区切られたコミュニティ、街の事です。

ガードマンによって24時間守られた空間で、少しくらい高くても安心を得たい人たちに好評だそうです。

さながら中世ヨーロッパの都市のようだと、ありました。

ローマ帝国崩壊後のヨーロッパは様々な民族が入りみだり、戦争、略奪が散発的に起こりましたが、

民衆はそれらを防ぐために高い城壁に囲まれた都市に住みました。そういえば中国も同じように都市をまるごと囲ってしまう形で都市を建設します。

 

日本では城下町は堀の外で、戦争はあくまでも市民階級の一つである侍が行うことで、

民衆は関係ない、という独特のスタイルです。もちろん民衆の家々は焼き払われますが。

 

アメリカのゲーテッド・コミュニティは犯罪者がいない代わりに、近所の付き合いがなく隣近所に対して無関心だそうです。

そういったことから、徐々に犯罪が起きているようですが、一部の人達はそのコミュニティ内部にさらにゲートを設け、その中に暮らすそうです。

もちろん料金は上積みされます。

 

そういえば、養老さんがどこかで書いておりましたが、日本の家屋にある塀についての考察をしておりました。

海外ではそもそも塀というものを見かけることが少なく、アメリカなどでは道があり、芝生があってそのまま家まで続きます。

アジアの一部では明確に泥棒を避けるために、頑丈で高く塀の上に刺が付いている壁を建てるそうです。

それに比べると日本のものは外敵を避けるためとしてはほぼ意味をなさず、これが表すものは日本人の家族観を表している、というような事だったかと思います。

 

西洋に置いてはプライベートの最小単位は、個人になるが、日本においては家族がそれであった、というようなものだったかと思います。

それが今では西洋化が進み、個人になりつつはあるが、その変換によって出来る軋轢に耐えられるほどの精神的な物、思想的な物が無いことを問題視していたように思います。

 

自然発生的なコミュニティの消失、人工的なコミュニティの出現。

日本では警備会社が家事もろもろの手伝いをするそうで、コンビニが店としての機能ではなく、治安維持に活用されたりしているようです。

たくさんの無駄なエネルギーが消失しているように思います。

 

そして、スーパーキャピタリズムですが、現在アメリカでは大手資本が旧来のメディアである新聞、テレビの報道機関を買収しているそうです。

日本でもそういった会社の株価は携帯電話のゲームを作っている会社よりも相当低いです。

そういった報道機関は株主の意向に背くわけにもゆかず、報道自体に手を加えられることもあるそうです。

そしてまた、大資本家はその他様々な業種の買収を行い、物流も押さえてゆきます。

物流を抑えられると、生産者は言い値で売らなくてはならなくなり、疲弊してゆきます。

 

アメリカが嫌う左翼的全体主義が皮肉にも資本主義によって行われている事を指摘します。

スーパーで買物をしているときにふと思いましたが、プライベートブランドが棚を埋めています。

50年くらい前の人がタイムスリップしてやってきたら、この状況を見て、日本は共産主義国になったのか、と勘違いするのではないか?

と妄想した事がありました。同じことかと思います。

 

どうも現代の制度や政策で行われることは人工的であり、コンクリートによる治水工事に似ている気がします。

コンクリートは10年もつが維持費がかかるだけでなく、生態系を大きく変えることになり、結局より大きな災害をもたらします。

そのあたりの事を書いている本がありましたが、文明を船に例えていました。

小さい船は波が大きかろうが小さかろうが、大きくゆられますが、巨大なタンカーは小さな波には揺られない代わりに大きな波を側面から受けると

大破することがあります。

 

マキャベリが君主論で指摘するのは、ローマ帝国の植民兵制度です。

日本で親しみがある言い方では、屯田兵です。

ローマ市民で形成される軍団兵は20年の勤務を終えて、退職金か土地をもらい辺境の地に移住します。

兵士であるとともに工兵でもある彼らはそこで街を作ります。

一つの軍団は完全独立の組織で、様々な職を持った人がいたそうで、そのまま一つの街ができます。

30後半から40半ばの年齢の人たちが、第二の人生を地元の女性を娶って過ごしたそうです。

 

そうすることで、自然と地域になじむだけでなく、軍隊を直接置くわけではないのでお金も掛かりません。

制度として行われていましたが、ローマらしい一石何鳥もの効果が現れていたようです。

 

マキャベリの生きていた当時、イタリアは傭兵での戦争を当然としていて、その人任せな制度を批判します。

フィレンツェにおいて、市民による軍隊を作ろうとしましたが、結局失敗に終わります。

傭兵による戦争ごっこに明け暮れていたイタリアはフランス、スペインの本当の戦争をしてきた人たちにあっさりと負けてしまいました。

 

どうも、良い制度というものはローマ的であり自然の流れを利用する方向があり、悪い制度というのは人工的で流れを無理に制限しているように見えます。

かなり贔屓が入っていますが、、

 

しかし君主論を読むと今の政治家はそこに書いてある、してはいけないことばかりをしているように見えます。

最もメディアが発達し、そもそも日本の政治は一部の大人が部屋に閉じこもって、していたことを習わしとしていた国では、どちらにせよ大変だろうなぁ。

雑記27 – 「アメリカン・デモクラシーの逆説」

以前「貧困大陸アメリカ」という本を紹介しました。

その後、とあるページでその本を批判している物を見つけ、こちらの方が優れいてる。

という記事を見つけたので、早速借りて読んでみました。

 

結果から言うと、大して変わらないじゃないか。と思いました。

「貧困大陸~」の方は下からの見方で、こちらの方は上からの見方です。

前者は経済学を学ばれた方が書いたそうですが、こちらは人類学的な視点で書かれております。

 

前者が数学で言うところの複素数の一つであるならば、こちらは古典力学的、とでも言いましょうか、

複素数の一つであるならば、ひとつだけ抽出しても全体像とは大きくかけ離れることがあり、真実ではなくなります。

しかし、古典力学でも近似で近寄ることはできても真実ではありません。

要するにどちらも間違ってはいないけど、どちらも合ってはいない。

見方が違えば事実も変わる。相対性理論のような事だと思います。

 

しかし、どちらの本も面白いです。

アメリカが直面している困難を嘲笑う、というのではなく、書かれていることは全く人事ではないかと思います。

前回書き忘れましたが、この本でも最後の方はアメリカの自浄能力という部分に注目しています。

アメリカンスピリットと呼ばれる、挑戦する力、人を助ける力、そして何よりも陽気な人柄。

悪い方向に行くと、横柄で身勝手なものですが、やはりパワーはすごいものがあります。

 

こちらの本では最後にハーバード大学の卒業式のスピーチが出てきます。

いかにもアメリカらしいそのスピーチを読んだのは、コメディアンの方だそうで、その道で成功して学問を治めるために入学したそうです。

機知と冗談が至る所に散りばめられ、真摯で誠実なそのスピーチは読んでいると笑と涙がこぼれます。

 

個人的にいだいていた感想ですが、アメリカ現大統領はローマ帝国のディオクレティアヌス皇帝のよなものだと思っておりました。

人柄的には徳川家康のように思うのですが、ローマの辺境に生まれ、差別される方の人種でありながら皇帝となり、

その当時ローマ人ですら忘れ去ったローマンスピリットを持っている人だったそうです。

傾国するローマを立て直すため様々な荒療治を行いますが、結果としてローマがローマらしくない姿になってゆきました。

暗黒の中世と呼ばれる時代の萌芽を感じさせるものがあり、歴史家によってはそこまでしてローマを延命させる必要は無かったのではないか。

などとも言われてしまいます。なんとも悲しい言葉です。

尊厳死を取るか、延命処置を続けるか。未だに解決できない問題です。

 

アメリカの強みでもあり、弱みでもある民族多様性、そこからふつふつと沸き上がる何かがあるように思います。

日本の思想の多様性からも何かが出てきそうな気がしてなりません。

 

どうやらアメリカに限らず、現代社会が抱える問題は同じようです。

雑多となった情報から生まれる、カテゴリーの細分化、直線を面積のない点で埋めるように、無限に続きます。

 

知的テクノロジーは人類に対して、著しい影響を与える。以前紹介した「ネット・バカ」という本で書かれていた言葉です。

文字の発明から、時計の発明、地図の発明に言及します。

文字は以前少し書きましたが、忘れていました。

昔は音読を前提に本が書かれていたそうで、黙読している人を見て驚く当時の人の記録を持ち出していました。

新たな知的テクノロジーを手に入れると、それ以前と以後とでは常識が大きく異なります。

 

昔の日本は十二支で時を数えていました。

日の出日の入りを基準に、正午で分断します。なぜ正午が分かるのか?疑問に思いますが、恐らく当時の人からしてみれば

その疑問自体を理解出来ないもののように感じます。

太陽の高さ、とかもあるでしょうが、腹時計、に近いもののような気がします。

ちなみに当時の侍は朝4つから昼8つくらいが勤務時間だったそうです。

現代の時間で言えば大体10時くらいから2時くらいまでです。正確な時間が分からないのでとてもルーズだったそうです。

待ち合わせに一日遅れたり、遠い場所では1ヶ月近く遅れることもあったそうです。

 

新たな知的テクノロジーを手に入れると後戻りはできません。

そういえばその本の中で、グーグルが作るAI(人工知能)についても言及しておりました。

様々な文法を記憶させて組み合わせる現在の方法では、いくら頑張っても人間が書くソースコードには及びません。

そういったアプローチではなく、ニューロン(神経細胞)の動きをコンピュータ上で複製してみよう。

というものだそうです。

なんだかすごく楽しそうなのですが、とてつもないパンドラの箱のような気がしてしまいます。

恐らくこの流れは変えられません。

どんなものが出来るのやら、楽しみにして待っている他ないようです。

雑記26 – 科学と非科学

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久々にSculptrisです。

細かいディテールを作り始めると、重くなるのでこの辺が限界のように思います。

もっと作りたくなりますが、残念です。さすがに飽きてきました。

 

modo501で新たなスカルプト画像がアップされておりましたが、MacBookProで作られたそうです。

要するにノートでもこれだけできるよ。という事なのだと思いますが、レンダリング画像ではどうにも分かりません。

ZBrush程ではないにしろ、ハイメッシュの物がスラスラ動いてくれることを期待してしまいますが、いかがなものなのでしょうか?

確かにもし、それができたら、それだけでかなり画期的なツールになるように思います。

出来ればペイント周りをもっと強化させて欲しいです。

 

空想の話はこれくらいにしておいて、

科学(自然科学)と非科学(宗教)の話を書いてみようと思います。

そういえば、自分はここでキリスト教やアメリカを批判するような事を多々書いているように思いますが、

そのどちらも非難する気もありません。ただちょっと言わせてもらえるならば、ぐらいの気持ちでおります。

コンピュータを使い、尚且つCGで生計を立てている時点で、それらから恩恵を受けており感謝の念ももちろんあります。

 

ただ、歴史的に見てゆくとどうにもおかしいんじゃないの?という部分を現代の社会を題材に考えてみたいだけです。

科学というと一般的にはニュートン力学を始め、学問による裏打ちされた毅然とした思想。と解釈されるかと思います。

もちろんそれには異論はありません。

この世の出来事は全て科学的に解明できる。と頑張っていた学者さんもおりました。

その方の本を読むと、世界中にいる一生懸命がんばっている学者が訳もわからないオカルトに負けることは許すべきではない。

といったことが書かれておりました。

その気持は非常に良く分かります。

しかし、どうやらそもそも自然科学という物自体がアンチキリストを発祥としており、

弱みにつけ込み民衆を苦しめる宗教からの脱却を図った、という新たな宗教であることが分かります。

そもそも世界で初めてオカルトと称された人はニュートンでした。

 

以前書いたかと思いますが、縁なき衆生は度し難し、あらぬ方向と向いている人は誘えないよ、ということですが、

その方向が反対であれば、話は変わります。

要するに虚数のような物になるのかと思います。

虚数とはx2=-1と表現されるとおり、自乗すると反対の方を向きます。

同じ軸で反対のものは同じ土俵で戦うようなもので、結局同類なのかと思います。

 

養老さんがどこかで書かれておりましたが、自分の話は良く無視される。というようなことを書いていたかと思います。

問題に対して相手が望むことや反対のことを言えば、それに対してリアクションのしようもあるが、その軸に対して

垂直の事を言っているのだろう。とかそんな話だったように思います。垂直だからその人から見れば0となり、結果無視される。

合っているか分かりませんが、経済についての話で今後の対策、という話で切り出した質問に対して、要するにエネルギー問題なんだよ。

というような答えだったかと思います。

やはり花見酒です。

皆が次の酒の取り分をうまい具合に効率よく取る話をしているときに、そのうち無くなるんだからもうちょっと考えて取ったら?

ということかと思います。

 

話を戻します。

同軸上に無い物、それを人間は知覚出来るのだろうか?という話です。

人間の脳みそには松果体という器官があります。丁度脳の中心近くにあります。思春期に性ホルモンを分泌する器官だそうです。

不思議なことに受光体があります。一部のカエルでは頭頂付近まで出てきていて、頭蓋骨を通して明暗くらいは分かるのではないか?と言われております。

どうも勝手な憶測ですが、インドの女性が額に付けるビンディというサンスクリットで「点」を表すその装飾は、そこから来ているのではないか?と思ってしまいます。

養老さんはどこかでミラーニューロンについても言及されていたかと思います。

この神経細胞は、自像の認識をするもので、他者がしている行動を見て、あたかも自分がそれをしているように興奮する細胞です。

一部の霊長類に備わっています。なので犬は鏡を見ても自分だと気が付きません。

 

まだ研究が始まったばかりで詳しいことは分からないそうですが、以心伝心、とはこれが関わっていてもおかしくないんじゃないか?といっていたかと思います。

近代以降、人類が抱える様々な問題はどうにもそういった軸の違いがあるように思います。

 

自然との乖離、という部分では日本は「もののけ姫」という映画でも表現されていましたが、室町期、約600年くらい前の話です。

その映画はギルガメッシュ叙事詩を参考に作られたのだろう、と言われておりますが、そちらは紀元前の話です。

西洋ではその頃からすでに都市化が進んでいたのだと思います。

5000年前と600年前、ホモ・サピエンスの20万年という歴史、アウストラロピテクスの250万年の歴史に比べれば可愛いものですが、

やはり差を感じずにはいられません。

clarisse – modo??

久々にCGの話題です。

Isotropix

Luxologyのフォーラムで話題になっているものを見つけました。

新たなCGツールのようです。というかインターフェイスが全くのmodoなんですが、どういう事なのでしょうか??

 

フォーラムでもそのことが話題になっているようです。

モデリングはできないようで、objやfbxそしてなぜかlwoやlwsが読み込めるようです。

501のアップグレードの停滞感はもしや開発陣がそっちに行ってしまったのか?と勘ぐってしまいます。

 

レンダリングとペイントに優れているようで、16bitのペイントをスラスラと行ったり、

ファーにペイントをしながらプレビューを高速で更新しています。

リプリケーターのような機能もあるようです。

 

501の新たなムービーはコンストレイント、と言いますか、エクスプレッションの機能が優れている点の紹介が加わっておりました。

ここまで来れば、いい加減な形でもデフォーメーション機能を入れておけば、スキニングは出来るのではないか?と思ってしまいます。

そもそも他の3Dツールもスクリプトや外部プラグインを使わないと、綺麗なスキニングは難しいかと思います。

キャラクターを作ると毎度ウェイトを設定する段でげんなりします。

もっとスマートなやり方を模索する必要があることを毎度痛感します。

 

リギングも含めたウェイト調整の新たな方向でも考えているのか?などと余計な期待を若干いだいてしまいます。

まぁ、どちらにせよそういったものができたとしても、ゲームではデータが重くなりすぎて使えない。ということが殆どです。

ゲーム機が速くなったから、それは関係ないだろう。と思われるかと思おいますが、ゲーム機が速くなって求められるのは

一体のキャラクターのクォリティよりも、どれだけ多くのキャラクターが表示できるか、どれだけ多くの要素が表現できるかの方に重点が置かれます。

 

確かに一体のキャラクターをどれだけリアルに作っても、作り手の自己満足でゲームの面白さには残念ながら結びつきません。

それが面白さに繋がると考えるとエロゲーくらいしか思い浮かびません。

まぁ、そのうちリアルなキャラクターが無尽蔵に出せるくらいになるのだろうとは思いますが。

 

しかし、このツール。いくらくらいで販売されるのでしょうか?

2万円くらいだったら買うななぁ、いや、買わないかぁ。

雑記25

さて、相変わらずCGの話ではありません。

 

自分の属するゲーム業界を切り口に仕事と大人、という事を考えてみます。

属しているとは言え、業界全体に比べれば自分の知っている範囲はかなり限られてはいますが、

他の会社とやりとりもするので、一つの会社ということではありません。

 

どうも、どの会社を見ても思うのですが、最近はリーダー職というものは責任を押し付けられるだけの機関になったように思います。

昔からそういった中間管理職は板挟みになり、とても大変なものだと思うのですが、社会的には通過儀礼的なもので、

その道を通ってようやく大人、と認められていたように思います。

 

現代の日本では、他の業種なども見ても思うのですが、その職自体が時限爆弾のような存在になり、

自分のところに飛んできたら、爆発しないうちに他に投げ渡すものとしての認識が多いように感じます。

 

学校の先生では、そういった責任職を辞退する人が増えている。という記事を見ました。

書かれていたことは、現場でもっとやりたいのに、現場を離れようとする先生が少なくなった。と書かれていましたが、

うそ、とまでは言わないまでも、どうもそれは建前ではないか、と勘ぐってしまいます。

 

現代では何か問題が起こると、すぐに責任問題に発展します。

そして、究極的には責任者の首を切って一件落着として事態を片付けます。

どうも何の解決にもなっていないような気がしてなりません。

 

以前書いたように思いますが、日本人は根性でゲームを作ります。

アメリカ人は電話帳くらいの厚さの仕様書を作成してからゲームを作り始め、途中でそのゲームがクソゲーと分かっても

そのまま仕様書通りに作って、後で反省点などをまとめるそうです。

どうもそういった蓄積が今になって差を生み出しているように思います。

アリとキリギリスでしょうか?普通であれば日本人がアリとされるところですが、逆転しています。

 

ちょっと話がそれました。

日本人が根性でゲームを作ることは悪いことではないと思います。

現にゲームの黄金時代は日本が作ったものだと思いますし、その時代のゲームはとても夢がありました。

かく言う自分もそれを夢見てこの業界に入りました。

 

同じ釜の飯を食う、という言葉がありますが、どうもそういった意識は今っぽくないようです。

カンパニーという言葉も同じような意味合いがあるそうです。

 

以前人間の生得的な表情を研究している人の論文を読みましたが、

細かい場所は忘れましたが、太平洋に浮かぶ島に住む首狩り族と言われる人たちと二週間過ごした記録を読みました。

二週間を共に過ごし、最後に冗談めかしく、自分の首は取らないのか?と聞いたそうですが、その答えは、

お前がここにやってきたときに、我々は共に飯を食った。共に食事をしたものは家族だ。いくらその首が魅力的であろうと家族の首は取れない。

と、真顔で言われたそうです。

そういえば、家族の起源を求めた人の本も思い出しました。

ニホンザルではオスがメスに餌を与えて、性交をする場面があったそうです。

その後その関係は続いたそうですが、そのうちにオスは餌を分けるだけで体を求めなくなっていったそうです。

なんだか私小説的な匂いがしてしまいます。

チンパンジーだったかと思いますが、他者から餌を奪っていいのは身分の低いものに限られているそうで、

身分の高いものがそれをすると、ひどい反撃に会い成功しないそうです。

 

また話がそれました。

その本では、最終的に食事の分け与えが家族の結びつきに大きな影響をもたらす、と書いてあったかと思います。

だから親類ではない異性が二人で食事をすることはその後の発展につながりやすく、同性であっても絆が深まる、とあったように思います。

そして、最後に父性について言及していました。

同じ霊長類といえども色々あり、父系家族を構成するものもいれば、母系家族を構成するものもいます。

人間に一番近いゴリラやチンパンジーが父系家族であることを考えると、人間も父系家族だとしていますが、

面白いことにゴリラは自分の子供でないものが群れにいると殺すこともありますが、自分の子供と共に育てることもあるそうで、

そういった流れが人間ではさらに強化され、生物学的な父親というものから社会学的な父親というものを定めるようになり、

それの究極的なものが神なのではないか、という結論に達していました。

進化の過程で、社会学的な父を定めたほうが全体として安定する。忘れてしまったのでちょっと漠然としていますが、そんな感じだったかと思います。

それが責任者であり、大人の務め、というと硬くなりますがそういったものなのではないかと思ってしまいます。

もっとも、こういった話をすると煙たがられます。

 

ちなみにニホンザルは母系家族だそうです。

なので、我々とは若干遠いいのですが共通点が沢山あります。

オスはボス猿であろうとも3年から5年くらいで他の群れに移るそうですが、他の群れに移ると前の群れでの経歴は無視され、一番下のランクから始まり

その後実力次第で上に上がってゆくそうです。日本の芸能界のようです。

なので、ボスはオスですが群れの主体はメスが作ります。

そのメスの群れは血縁でランク付けされているそうで、その血縁以外にはあからさまな差別が存在するそうです。

群れが大きくなりすぎると血縁同士でも争うようになり、やがて分裂するそうです。江戸時代の大奥のようです。

 

日本で消滅仕掛けている村社会、しぶとく残る村社会。

それらをうまい具合に融合させたらすごい国になるだろうなぁ、などと夢想してしまいます。

政策という小手先のものでは変えられないんじゃないかぁ、と思う一方革命による変更は長い目で見るとその国に対してマイナスの要素が大きすぎる。と思います。

 

そういえば、2013年にミニ氷河期が来るかも知れない、という記事を読みました。

近年では3世紀から8世紀頃までヨーロッパはミニ氷河期でした。ローマ帝国が滅亡した原因の一つでもあるかと思います。

真夏に雪が降ったりしたそうです。

現在温暖化だから丁度良い具合になるのでしょうか?

じゃあ、大丈夫じゃん。という考えが生まれそうです。

雑記24

うーん、前回の記事はちょっと筆が滑った観があります。いまさらですが。

どうにも現在の日本の外相が言う、1.5%の第一次産業を守るためにそれ以外に負担をかけさせるのはいかがなものか?

という発言に対し、それはいかがなものか?という思いが強く、そうなってしまいました。

 

どうにも、現代はソフトウェアの時代なのだからハードはどうでもいいだろう。

脳みその時代なのだから体などはどうでもいいだろう。というように聞こえてしまいます。

 

さらに筆を滑らせますが、テレビを見ていると今更ながらに捕鯨問題を取り上げていました。

以前キリスト教という切り口で、近代の思想を考えてみようと試みましたが、まさに端的な例が提示された気がします。

 

元々捕鯨問題というのは、アメリカがベトナム戦争時に使った枯葉剤の影響を世界的に避難されたときに、

アメリカが大々的に取り上げ、世界の問題意識を逸らすことに目的がありました。

それに対して日本は、データを提示し日本の捕鯨程度では鯨は絶滅しないと馬鹿正直な反論をし、ドツボにはまりました。

 

司馬遼太郎さんは、アメリカスペイン戦争を隣の家であるキューバの門前に、唾を吐いたスペインに対してアメリカが

けしからんと、喧嘩を売った戦争だ、と表現しましたが、これも内政の悪化による世論の矛先を変える、という意味があったそうです。

 

大局ではそういった流れだそうですが、現場レベルで彼らが言うことは、鯨やイルカは知能が高く我々に近いから殺してはいけないそうです。

やはり意味が分かりません。

豚や牛は知能が低いから工場生産物のように扱って、消費できない分は捨ててしまっても問題ない。ということでしょうか?

 

ネイティブアメリカンと言われる、アメリカ大陸先住民族は大型の哺乳類を捕食して生活していました。

どうもいくつか発掘されたその痕跡からの仮説ですが、それらは極稀な事で、数百頭にも及ぶ大殺戮というのもありはしたそうですが、

基本的には散発的な狩猟だったそうです。

種を減らし過ぎないような調整があったのでは、と解釈する人もいます。

 

それ以前に、彼らは自然を畏れ敬い、自然によって生かされている事を自覚していました。

白人の侵略を受けた当時、支配を受け言いなりになり偉大なるものを滅ぼすよりも、自身が死んだほうがよっぽどましだ、と多くの人が死んでゆきました。

 

一体どっちが野蛮なのか分かりません。

日本も現在年間600万人の命を救える量の食料を捨てています。カロリーベースの食料自給率が低いのですが、そもそもカロリーベースで話をするのなら

ご維新以前の日本人の取得カロリーでいうならば、話はまた変わってきます。

 

どうものこの問題の全てに頭と体の問題が散りばめられているように思います。

レイトレースのポイントライトは確かに明確に世の中を見せてくれましたが、現実的ではないなぁとつくづく思ってしまいます。

 

江戸時代の日本では、となり村とのいざこざが発生すると、初めは若衆と呼ばれる軍事を受け持つ村の若者が担当したそうですが、

それでも解決できない高度に政治的な問題は、お互いの村の老人(おとな)たちが話しあって決めるそうで、

皆がそれなりに納得する答えが出るまで、何日も泊まりこんでキセルを燻らせゆっくりと解決したそうです。

それで良いじゃないか。とついつい思ってしまい、書いてしまいました。

自分も現代に生きているので、一義的に物事を見てしまう事ももちろんあり、偉そうなことが言える身分でもありませんが、

現代に生きる日本の良い面をより活かせる方法というものを勝手に想像、模索しております。

 

あぁ、最近CGの話題から随分とかけ離れています。

もう少し腰を据えてUnityに取り組みたいのですが、modo501気になります。

マルチレゾスカルプトのビデオが公開されていますが、気になるのは速さと、トポロジーを崩したときにどうなるかです。

速さは、ビデオを見ると数百万ポリゴンで処理落ちしているように見えます。しかしビデオの後半では数千万ポリゴンのモデルを編集しています。

マシンが変わったのでしょうか?数百万ポリゴンの方はプロシージャルブラシで処理落ちしているようにも見えます。

トポロジーの変更については一切触れられていません。英語では書かれているかも知れませんが、、

書かれていないということは、当然問題なく動作する、ということか、スカルプトデータが破壊されるから見せないのか、思わず勘ぐってしまいます。

後者でないことに淡い期待を寄せてみます。

雑記23 – ネット・バカ

 

偶然見つけた新聞の書評で知りました。

その書評を書いていたのは養老さんでした。

バカつながりで読んだのか?などと冷やかし半分で借りて読みましたが、内容の濃さにびっくりです。

ちなみにその書評は一語足りとも覚えていません。ちゃんと読んでおけば良かった、と後悔しています。

 

洋書のタイトルは随分違うようですが、キャッチーなものを選んだようです。

 

著者は長らくコンピュータ関係の仕事をしていた人だそうで、その仕事がら

メールクライアントを常時起動させ、各種リーダーを購読し、様々なSNSに登録し、あたかもコンピュータに急かされるように

情報を集め、さながら満腹中枢を破壊されたねずみのように過ごす日々で、

以前よりも情報を効率的に処理する能力はついたが、その情報を殆ど覚えていない。

という状況に、もしかしたらネットを使っていると脳みそが劣化するのか?というちょっとお馬鹿な疑問から出発します。

 

ニーチェは戦争時に落馬して文筆活動を停止したそうですが、タイプライターを手に入れることで再び活動を再開したそうです。

しかし、友人の指摘はそれ以前のものと文章が違う。というもので、ニーチェ本人もそれを認めています。

猿に熊手を使って餌をとることを覚えさせると、脳が活性化されてゆきます。

さらにそれを続けると、猿は熊手を見たときに手の一部であることを認識するそうです。

もちろんこれは人間にも当てはまります。

たかが道具、といいますが、場合によっては人は道具に支配される、ということを色々な実例を持ち出し分析してゆきます。

 

そして、脳の可塑性に言及します。

やっぱりそうなのか、と言いたいところですが、西洋では長らく脳は一つのもの、という認識だったそうで、

複数の細胞によって構成されている、という認識はフロイトくらいからのごく最近のもののようです。

複数の細胞で構成された脳は、複雑なネットワークを形成し、壊れるとそれを再構築します。まるでインターネットのようです。

猿の手の神経を切断し、回復するまでの実験が書かれています。

初めは脳も、神経も混乱を生じますが、しばらくすると新たなネットワークを構築します。この柔軟さが可塑性です。

しかし、柔軟ではあるが、弾力がないと指摘します。

一度伸びきったゴムが戻ることが無いのと同じように、鬱病から立ち直った後の強迫観念などの例を引き出します。

 

マウスの実験の話が出ますが、細胞がタンパク質を合成できなくする抗生物質を投与すると、長期記憶が保存できないという結果から、

記憶というソフトウェアはハードウェア的な変化を伴う、と結論づけます。

精神(ソフトウェア)が脳(ハードウェア)に影響し、脳が精神に影響する、という機械では考えられない事態が起こります。

 

西洋的な考えでは人格、精神というものは確たるものが存在し、肉体はあくまでも入れ物でしか無い。

と考えます。

この考えは現代の日本にも大いに影響を与えていると思います。

何者にも影響を受けずに、人格という固定されたものが存在すると勘違いを起こします。

一義的なものの見方で世の中を見ると、大変わかり易く物事が見えます。だからマッカーサーは成人日本人はアメリカ人の12歳程度、

と断言できたのだと思います。

断言するとカッコいいのですが、実は間違いだらけです。

このあたり、ニュートン力学と量子力学の対比のように見えてしまいます。

 

そして、文字の歴史の部分ではソクラテスが出てきます。

元々エジプトの影響だそうですが、ソクラテスは文章に書く事を拒み続けました。それらを書いたのは弟子のプラトンです。

文字を書く事で記憶を文字に任せ、大事なことを覚えられない。本当に大事なことは文字にはできないことだ。

というのがソクラテスです。

 

そして、現代では記憶のアウトソーシングはネットに移ります。

無駄な記憶を貯めないために、そういったものはネットで済ませよう。そういった試みがあったようですが、残念ながら失敗したそうです。

記憶のメカニズムについて長く書いてありますが、要は脳は記憶することでネットワークがより複雑になり、簡単にいうと頭がよくなる。

脳の記憶容量はある意味無限で、そもそもコンピュータのメモリとは記憶の質が違うことを指摘します。

 

で、結局バカになるのかならないのか、というところを言いますと、明言は避けています。

自分次第だろう。という事だと思います。

西洋の人が書いたものは大抵一義的で、読んでいると釈然としない部分が残ることが多いのですが、個人的にはすっきりしました。

とてもいい本です。

 

余談ですが、グーグルの人が言ったことだと思いますが、今後人は成人になると改名するようになるのでは?という記事がありました。

その原因は、早くからネット社会に関わることになるこれからの人達は、若さ故に様々な過ちを犯し、

それとは違う名前で新たにきちんとネット社会と付き合う必要性を感じるようになるのではないか?というものだったかと思います。

昔の日本は成長にあわせ名前を変えました。その社会では絶対的な人格というものはありませんでした。

そういったものが消えつつ、一義的なものの見方しかしなくなる世の中に対して、バカの壁、と毒づきたくなる気持ちも分からないでもないなぁ、と感じました。

雑記22

体調を崩しました。季節の変わり目ということでしょうか。

 

またCGの話題からそれます。

 

現代の民主主義、資本主義社会は地域によってそれなりに差があるようです。

アメリカのそれは、底辺がいくら低くても、上に登れるチャンスが多いほうが良い、というもので、

ヨーロッパのものは上に登れるチャンスは少ないが、底辺でもそれなりの生活が保証される、というもので

日本は全てをノーマライズさせようとするところに問題がある、という人もいます。

 

この話、読んでいるときに思い出しましたが、ライティングの本で一灯主義を唱える人が似たようなことを書いていました。

野外において、ストロボというものは補助的な太陽光として使用する。とありましたが、

そのストロボライトは作られた地域によって差があり、アメリカのものはカリフォルニアの太陽を思わせるようなピーカンな陰影ができ、

ヨーロッパのものは薄曇りのぼやけた感じの陰影が出来ると書いてありました。

そして、日本のものはケルビン値という数値に置き換えられて作られたなんともつまらないものだ、とありました。

 

四季の境がはっきりしている日本において、太陽を擬似するのが難しいのだろう。とありましたが、

なんとも日本的な感じだなぁ、とひとり納得しました。

 

日本について、まとめてみようかと思ったのですが、難しそうなので、とりあえず日本の性文化というものを見てゆきたいと思います。

というのも、少し前の話ですが、現在外国で働いている方が書いている日記で、日本の性文化はいつも欧米の笑いものになる。

という日記を読んだのが始まりです。

どのように笑いものになっているのか知りませんが、その日記を読んだときに、今でもそうなのか、と驚きました。

 

幕末の日本に外国人がやってきたときに、日本人は全員スケベだ、と言われたそうです。

その理由というのも、キリスト教文化圏と違い色町が政府公認の施設であることと、街道に連なる旅籠には

飯盛女という人達がいて、給仕の他に別料金で夜のお供をしたそうです。もちろん全てがそうではありませんが。

 

当時読まれていた雑誌のようなものには、道端ですれ違いざまに見知らぬ婦人と事に至るには、などというハウツー本のような物もあったようです。

現代では犯罪紛いのような気がしますが、、

 

もちろん全てがそう、というわけではありませんが、

祭りが行われた後は、男女が茂みに隠れて行為に及ぶこともあったそうで、千人斬りを達成した人は神社に祀られる、

という話は裏が取れていないので、本当か分かりませんが、ありえない話ではなさそうだ。と思います。

 

漁村、農村では夜這いの風習がある地域もあり、そういった地域では女性が身篭ると、女性に夫を選択する権利があったそうで、

選ばれた人は身に覚えがなくても従わなくてはならないそうです。

昔は実の親、というよりも地域で子供を育てる習慣があったので、生物学的な父親というものを明確にする必要は無かった、ということなのだと思います。

 

現代の日本はそれに比べれば欧米化されていると思うので、当時の日本の性文化を知ってゆくと、確かに表面的な部分ではスケベと言われても仕方がない。と感じるかと思います。

 

もう少し掘り下げると、戦国時代に1千万人くらいだった人口は戦国末期、平和と安定がもたらされ爆発的に増えました。

江戸初期で3千万人に達した人口は明治に入るまでほぼ横ばいを続けます。

そんな淫らな国でなぜ人口が増えなかったのだろう?不思議に思いますが、間引かれていたようです。

明治初期に撮られた写真を見ると、山は大抵丸裸です。いくら豊かな自然と言っても、燃料を薪や芝草に頼る文化ではその人数が手一杯だったようです。

黒船に乗ってやってきたペリーが日本に要求したのも、薪と水だけでした。

江戸中期に銅が枯渇した日本はすでに金も銀も殆どなくなり、資源と呼ばれるものは無いに等しかったようです。

 

現代ではメタンハイドレードが注目の次世代燃料になるかも知れないそうですが、個人的には日本の技術力、という方に注目しています。

話が全く違うように感じるかと思いますが、日本の省エネ技術は着眼点が面白いように思います。

人が歩く振動で電気を発生させてみたり、太陽光をより効率よくエネルギーに変えてみたり、それらの技術を生み出す精神である、

「勿体無い」という言葉。

奥ゆかしく、真面目で几帳面な日本人。外から悪く言われると、自分で卑下しがちになりますが、世界に誇れるものだと思います。

と、言いながらも、大多数の日本人がそうであるように、自分も外人の前ではどぎまぎしてしまいます。

慣れですかね?

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