modo501その3

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ペイントをテストしています。

嬉しいことに画像インクに一枚一枚読み込まなくてもディレクトリ指定で画像を一括登録してくれます。

ただ残念なのは、ブラシはプリセットのようで画像としては一枚一枚の読み込みになるようです。

うーん、惜しい、、

 

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そして実際にどのようにペイントされているか、UVで確認してみます。

初期設定>レンダリング>「レンダリング時のUV境界サイズ」で「20」と多めの値を入力して

どのようにハミ出しを描いてくれるか見てみました。

概ねそのとおりですが、やはり一部対応出来ていない部分を発見します。

401に比べれば大分良くはなっているように思いますが、やはり気になります。

 

それと、会社のパソコンにもインストールして調べてみました。

自宅の環境に比べはるかにハイエンドな環境ですが、思ったほどは差は感じませんでした。

もちろんレンダリング、プレビュー、RayGLでは圧倒的な差が出ますが、スカルプトに関しては

2GBのビデオメモリ、20GB以上のメモリを搭載していても1000万ポリゴンは重いです。

嬉しいような残念のような、複雑な心境になります。

 

ついでなので、スカルプとした後にジオメトリを編集するとどうなるのか検証します。

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図で選択されたポリゴンにエッジループを追加しました。さほどの変化はありません。

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図で選択されたエッジをスピンさせました。これもさほど変化はありません。

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図で選択されたポリゴンを押し出してみます。ちょっと変化が出てきました。

どうやらポリゴンでの形とスカルプトの形が大きく違わなければ、

スカルプトを初めてからジオメトリを編集してもそれ程悪影響は生じないようです。

 

ちなみに401の時と同じであれば、「減衰」ブラシを使うことで、スカルプト情報のみを消すことが出来るはずです。

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ちょっと分かりづらいですが、細かい部分を消してみました。

なるほど、物によってはスカルプトとポリゴン編集が同時にできそうです。

 

それと付属のビデオで知りましたが、スカルプトを「彫刻」「連続ストローク」にチェックを入れ、

シェイプを「シャープ」に設定するとSculptrisのクリーズのようなブラシになります。

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今まで「折り目」ブラシでちまちまとやっておりましたが、こちらの方が手早くできそうです。

そろそろいい加減にマニュアルを読み始めようかな。

マスクの使い方が分からない。

ヘアーツールもいじってみたいです。

modo501その2

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実際に作りながら機能を探ろう。と思ったのですが、結局古いデータを流用しました。

というのも、今まで「0」キー(テンキーではない)を押すとツールハンドルの表示が消え、

有機物を作るときは大変重宝していたのですが、501では動作しません。

コマンドは実行されているようなので、小さなバグです。

しかし、邪魔でしょうがない。

 

さらにSculptrisのモデリングに慣れると、ポリゴンで有機物を作ることが億劫になります。

Sculptrisでは細かいモデリングは難しいのですが、通常のポリゴンモデリングでは大まかなモデリングが

めんどくさいです。

いけないなぁ、、と思いながらも、ついついそうなってしまいました。

Sculptrisも使いこなせているわけではないのですが。

 

やはり使ってみて実感する部分は、スカルプトに関してはディテールを作る事に専念した方が良いかな?

という感じがします。まだ結論付けるには早いとは思いますが。

 

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そして、これが頂点にイルミネーションをベイクしたものです。

プログレスバーが出ないので、ちょっと不安になりますが、処理はされているようです。

 

期待したのは、マルチレゾリューションでベイクされればZBrushのように細かくベイクされるのではないか?

と思ったのですが、そういう訳では無いようです。

ちなみに、空の頂点マップを用意してそこにだったらマルチレゾリューションで描き込めるのでは?

と思ったのですが、それもダメのようです。

しかも、頂点カラーは相変わらずペイントツールが使えず、フォールオフのエアブラシを使うことになります。

 

ここまで出来るのだから機能的には絶対に出来るだろうと思いますが、

そこにばかり開発を優先させることができなかったのだろうと思います。ちょっと残念です。

 

デモビデオではRayGLを使いながらスカルプトしているのを見て、鬱陶しく感じていましたが

実際にやってみると思っているよりは良いです。

ZBrushのように通常の状態できれいなシェーディングであれば全く文句無いかと思いますが、

modoでは何が行われているのかが把握できる。という部分に安心感を持てます。

modo501その1

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modo501を導入してみました。

一番知りたかったスカルプトを早速実験してみました。

上の図はRayGLという今回から導入されたビューポート画面をプレビューする機能です。

ここではそれを最高品質で、スクリーンショットを撮ってみました。

 

環境がGeFoce8800の512MBのGPUメモリなので、大した環境ではありません。

メモリも6GBでスレッドは4つです。

 

この環境では、200万ポリゴンくらいが作業の限界のように思います。

ここではレベル7で100万くらいだったのですが、もう一段階上げて700万でディテールを足しました。

作業できないことはありませんが、肌っぽいブラシでなでつける程度です。

 

同じポリゴン数でも形状によって負荷が変わるように思いました。

900万ポリゴン位でも表示はスムースに行く場合がありました。

 

そしてトポロジーを変化させた場合どうなるか、ですが、

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この図は選択されたエッジを「v」でスピンさせた後アンドゥで戻したものです。

戻りませんでした、、

スピンさせると形状が大きく崩れます。

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そしてベベルで押し出ししてみました。

押し出した箇所がよく分かるくらいに形状が崩れます。

さすがにスカルプトを初めてからはポリゴン編集はしないほうが良いようです。

ベベルを適用するのにしばらく待たされます。

 

もっと良い環境で使えば1000万ポリゴンでも快適に作業が出来るのでしょうか?

可能性を感じさせます。

ただ、スカルプとしているときのスレッドは一つしか使われていないようでした。

ちょっとした問題でそうなっているのか、複合的な問題が重なってそうなっているのか、良く分かりませんが前者であればすぐに改良されそうです。

 

初期設定>レンダリング>「ジオメトリのキャッシュサイズ」

というところでメモリの割当が出来るようですが、これはスカルプトにも関係あるのでしょうか?マニュアルを読んでいないので分かりません。

と、一応検証しようとメモリの割当を5GBから4.5GBに変更してみましたが、小数点はダメのようです。

しかし、設定を変更して起動しなおすと、メモリの消費量が変わっています。スカルプとも少し快適になったように思います。

 

うーん、色々とよく分からないことが起きます。

まだ触ったばかりなので、こちらが把握していない。というのもあります。

 

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これがマルチレゾリューションのレベルを「1」にしたものです。

立方体を一度サブディバイドしポリゴンを押し出して首を作っただけでスカルプトに入りました。

早く知りたかったのでとりあえず、という感じです。

 

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そしてUVです。これもとりあえずです。というかモデル自体がすでにそうですね、、

 

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そして、ノーマルのベイクです。UVの切れ目は大分改善されていますが完璧ではないようです。引き伸ばしが完璧になりました。

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レベルを1にしてみました。だいぶ変形させたのでこれは仕方が無いですね。

 

と、まだそれ程じっくり触れていませんが知りたいことを調べてみました。

個人的な感想は、かなり良いんじゃないか?と思っております。

今度はちゃんとしたものを作ったみたいと思います。もっと色々と知りたい。

雑記38

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modo501の日本語版がまだなので、気晴らしに象を作ってみました。

皺を描くのは楽しいのですが、やはりだんだん重くなってきます。

このあたり、ZBrushではまだまだのレベルですが、GPUの描画に頼っているツールでは厳しくなってきます。

modoのマルチレゾリューションも100万ポリゴンくらいなんだろうなぁ、と勝手に踏んでいます。

もう一桁、と言いたいところです。

 

さて、絵画についてもう少し書いてみます。

授業中にあった、やりとりでとても印象的なことがありました。

学生が描いた風景画に対して先生があれやこれやと講評をする時の話です。

 

空と海だけが描かれたものがありました。

そう書くと何の変哲も無いことですが、水平線が湾曲しあたかも球体の一部のように描かれておりました。

それを見た先生と学生のやりとりはご想像の通りかと思いますが、そう見えた、そうは見えない。というものでした。

 

それを見ていた自分としては、どっちもどっちだ。と半ば呆れた気持ちで見ておりました。

 

ここに潜む問題はもっと本質的なことにあります。

その本質は地球が丸い、といった類のものではなく絵を生業としてゆくには、と言ったところにあるかと思います。

絵を描くことを生業としてゆくには、買い手に買ってもらえる絵を描かなければなりません。

恐らく先生が本質的に言いたかったことというのは、水平線を歪めてしまうと絵としてのバランスが崩れ、見ていて心地悪いと感じる人が多い。

よって、その絵が売れる可能性が低くなる。と言った感じかと思います。

特にアカデミックな絵画というものは幾何学的な要素による部分が多く、さらにその中でも直線による部分がとても多いものです。

 

それをさらに掘り下げてゆくと、失礼ですが決して裕福に見えない先生方は描いた絵を売ることだけで生計が成り立っているのか。という疑問も生じます。

ここまで来るとようやく本質にたどり着けます。それがその人の生きる道だから。

 

前衛的な芸術と呼ばれるものは、ルールがありません。

概念を壊すこと、全く性格の違う概念を一つの人格を通して繋ぎ合わせること、などの操作を経て出てきたものが現代美術なのだろう。と個人的には思っております。

自分と他者、過去と現代、絶対的な物、あるいは相対的な物が基準にありようです。

 

しかし、どうやら人の生きる道には基準がありません。

絶対的なものから、相対的なものになり、不確定性原理に行き着く。どうも物理の歴史も美術の歴史も似た様な経路をたどっているように思います。

量子論の本を色々と読んでゆくと度々仏教が出てきます。まぁ、そうなっちゃうよね。と思いながら読んでしまいます。

 

さて、さらにしつこく掘り下げてみたいと思います。

では、なぜその道を選んだのか。というものです。

 

以前ビュリダンのロバ、という話でも出しましたが生命というものはどうも大抵重みを持っているもののようです。

少し前にどこかの記事で読みましたが、魚や猫にも利き腕と言いましょうか、利き方向があるそうで逃げる方向や、驚いて手を出す腕が統計的に決まっているそうです。それが重みです。

それがなぜ決定されているか、という話になると宇宙の起源にまで遡ってしまい、CP対称性の破れがあったからだろう。となってしまいます。それが何故あるのかは分かりません。

 

人間に関して言えば、その人が歩んできた道において、何かしらの重み付けされたものがあり、それが積み重なって現在がある。あっちゃった?

どうも歴史を叙述する人、というのは極度の重みを持った人のように思います。マキャベリ、司馬遼太郎さん、司馬遷、数え上げれば枚挙に暇がありませんが、

その重みが彼らをして、筆を取らせるきっかけでもあり、錘でもあるように思います。重みだけに。

そういえば、養老さんもそのようなことを書いていたことを思い出しましたが、オチの部分しか覚えていません。

性的なものに極度の重みがある人を助平と呼ぶのだろう。といった具合だったかと思います。

 

どうも近代的な文明というものは、その重みという衝動を動物的な物、として排除する傾向が強いように思います。

意図せず生まれて、意図せず死ぬのに。だから色々と不都合が起きているんじゃないの?この辺りも養老さんがどこかで書いていることを勝手に書き換えているだけですね。

 

うーん、どういった事を書こうとしていたのか忘れました。

そういえば、絵画といえば動物の認識力の実験で面白いことをしている人がいました。

20羽の鳩を10羽ずつのグループに分けて、片方にピカソの絵を見せ、もう片方にモネの絵を見せます。

見せたときに鳩が鳥かごを突付くと餌をやるようにしたそうです。根気よく続けていると、統計的に見て鳩が理解していることを示します。

その後同じ画家が描いた違う絵を見せても、やはり反応するそうです。

面白いことにピカソグループの鳩は、ブラックやマチスに対しても反応するものもあり、モネのグループではルノワールやセザンヌに対してやはり反応するものがあるそうです。

しかもモネグループの方は同じ絵でも逆さまにすると反応が無くなるのに対して、ピカソグループでは逆さまでも反応を示すそうです。

人間だけが特別に認識力が優れている、というものではないようです。

それとピカソの絵を見て「俺には芸術は理解出来ない。」というのはどうも生理学的に正しいことのようです。

雑記37 – 「物理学と神」

 

とてもすばらしい本でした。

やはりそうですよね、と僭越ながらに勝手に思ってしまいました。

 

知識量と幅の広さ、疑うことを忘れないスタンスに脱帽です。

サイエンスライターである竹内薫さんは理系に凝り固まった人は比喩表現が嫌いであることを指摘します。

例えてものを言うと、物事の本質から外れてしまう。というのが原因のようです。

ただ、一般の人に理解を得るのであれば、多少違えども比喩表現を使わないと賛同は得られないことをどこかで書いております。

 

そういった意味で言うと、ここに出てくる比喩表現はとても秀逸です。

昔は真空とは無を意味するものでしたが、不思議と真空に電気を加えると電子が飛び出します。

そして、陽電子という電子とは逆の電荷を持った反物質も生成されます。

これは真空とはマイナスのエネルギーを持った電子が集まっている状態なのではないか?とされていますが、

それを比喩表現を使って説明しています。

 

空の財布(真空)があり、カード(電場)を消費者金融の自動現金支払機に入れて手続きをすると、

現金(電子)と借金(陽電子)が出てくる。

なんとも痛快な例えです。思わず声を立てずに大笑いしてしまいました。

 

そして、全編を通して神を軸に科学というものがどのように接してきたのか、科学というものが神とどのように接してきたのか、

歴史を掘り下げ探求してゆきます。

 

対称性と複雑系、というものが出てきます。

不思議と人が美しいと感じる物、崇高であると感じるものは対称性があることを指摘ます。

対称性を広げて言うと、「無」こそは最も対称性が高いものである。としながらも、以前ここでも書いたかと思いますが、

対称性が破れることで、この宇宙は誕生しました。

そして、時間の経過と共に複雑系が増えてゆきます。

熱力学の第二法則は、エントロピーの増大則です。

これについても簡単に説明されており、お湯をほっておけば自然と冷めてゆく、が水はほっておいても外部からのエネルギーが無い限りは温まらない。

ほっておくと温度の高いもの(質が高い、エントロピーは低い)は温度の低いもの(質が低い、エントロピーは高い)に変化します。

 

そういえば、どこかで読みましたが、このエントロピーの増大はマクロである宇宙にも適用できるのではないか?というのを読んだ記憶があります。

それは、元々宇宙はエントロピーが低く、対称性が極めて高かったものだが、時間の経過と共にエントロピーが増大し、カオス(複雑系)が増えているのでは?

というものでした、最終的には全てがカオスになる。という結論だったかと思います。

 

この本では、物理学だけでなく、経済学、そして仏教に関しても言及しています。

アインシュタインが間違えと認めた斥力、というものがありますが、これはアインシュタインが作った宇宙を記述する方程式では宇宙は有限であることを否めなくなるので、

永久不滅の宇宙を作り出すために入れた項でした。

その後の科学者は時代の変遷と共に、それを取り付けたり外したりします。

人間が知っている物質など宇宙の5%ほどでしかなく、それ以外の95%を知り得ない状態で右往左往する科学者に対して、

あたかも釈迦の手のひらでウロウロしているようだ。という感想がありました。養老さんを思い出しました。

 

どうも個人的には対称性と複雑系、脳みそと体。同じように感じてしまいます。

対象物の問題か、主体の問題か。世界には客体というものは存在しません。世間一般に言われる客体とは主体の複合体で、

複素数からなる最終ベクトルに過ぎません。

考える個人は結局のところ自分の脳みそから出てゆくわけには行きません。そう考えると最終ベクトルこそが神の意志。と考えるのも一興かもしれません。

 

未だ少し興奮気味なので、文章が変です。今に始まったことでもありませんが。

 

そういえば、modo501ついに出たようですね。日本では24日にリリースされるそうです。

見たところマルチレゾリューションのスカルプトで継ぎ目が見えることは無いように見受けられます。

そうなるとトポロジーを崩すとどうなるのかが一番気になります。どういう形でデータを持っているのかも気になります。

ZBrush程のスカルプトの快適さは期待できませんが、ポリゴン編集しながらスカルプト出来るのであれば万々歳です。

ようやく頂点カラーに焼付が出来るようになったのですね、それに関しては、遅いよ、と言いたくなります。

しかしアップデートの無いように、マニュアルの充実が謳われているみたいですが、翻訳する人の身になると吐き気を催す内容ですね、

ユーザーとしては大変ありがたいのですが。ご苦労様です。

 

うーん、待ち遠しい。

最近のアドビやオートデスクの製品では感じられないものを感じています。

期待は裏切られるのでしょうか?

雑記36

どうにもCGに行き着きません。

仕事中に実験して、家に帰って検証する。という事がしばらくできそうにありません。

精神的な余裕はあるのですが、時間的な余裕が無い。そんな感じです。

modo501を待っている気持ちもありますが、果たしてどのようなものが出来上がってくるのでしょうか?

楽しみのような、怖いような気がしてしまいます。

 

Unityはコンシューマゲーム機での開発と違い、パソコンをターゲットにすると容量制限が分からなくなります。

低いスペックに合わせるか、高いスペックにして作ってしまうか。

尤も、一人でやっているのでそれ程コストは掛けられません。

うーん、プレステ2にメモリがいっぱい入っている感じで作るのが良いのだろうか?

でも、やってみたいこともいっぱいあるしなぁ、などと考えてしまいます。

シェーダーツリーが使えるようになるパッケージを入れてみましたが、どうもシェーダーボールが表示されずに困っております。

 

あーだこーだ言っていないで、とにかく何か作ってみようか。というところで止まっています。

もう少し書いてまとめておきたいことがあるので、まだしばらく雑記が続くかと思います。

しかし、ここで「やる」、と書いたことは大抵反故されているように思います。

 

ということはCGネタが復活するのか?などと自分で思ってしまっているので救いようが無いですね。

雑記35

予告通り、日本の西洋絵画の歴史について書いてみようかと思います。

 

前回、後から入ってきた印象派がその後の日本の西洋絵画観を決定付けた事を書いたかと思います。

どうもそのあたりは、日本の歴史を知る上でとても大きな法則性を感じてしまいます。

 

司馬さんだったかと思いますが、鎌倉仏教という観点で同じような作用を見出しています。

それ以前の仏教というものは木像で木の質感そのままの仏像だったそうですが、

鎌倉時代に入ってきた仏像というものは金メッキされて入ってきたそうです。

それに対して日本人がとった態度というものは、金ピカのほうがご利益がありそうだ。

と、飛びついたそうです。

現在でも鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮に行くと、それらを見ることができます。

 

ご存知のとおりですが、日本は外国の文明を取り入れ発展してきました。

そこには外の世界に対しての憧れ、というものが存在するかと思います。

 

奈良時代に日本の人口は爆発的に増えたようですが、確定的な証拠はありませんが移民を多く受け入れたようです。

主に朝鮮半島から人々を、文明を取り入れる、ということで優遇して受け入れ、政府の高官などにしていたようです。

「駒」と付く地名はそういった人々が集落を形成した場所だそうで、関東を始め各地に点在します。

地域によってはお神輿というお祭りがありますが、それも朝鮮半島から来たものではないか?と言う人もいます。

「わっしょい」という掛け声は、今でもそうなのか知りませんが、ハングルで「来ました」という意味を持つそうです。

 

個人的な推察ですが、そういった高貴なものに対する憧れと、彩度の高い物が多い印象派、というものが日本人に合ったのではないかと思います。

 

そして、印象派です。

実はそれほど詳しくは知りません。なので、間違えが多々あるかともいます。

どうも当時の画家たちは写真、というものに対してどのようなスタンスで向き合うべきかを模索していたように思います。

アカデミックな絵画と呼ばれるものは、極論で言ってしまうとフォーマットの記憶、ということになります。

物を見て描く、という行動に対して、この形はこうあるべき、こう描くべき、という事が出てきます。

具体的に言うと、膝や肘を正面から描いても中々立体に見えません。それらは描き方があり、この部位はこう処理する、

日本人の足は形がきれいでないので、ギリシャ足にして描く、等のルールのようなものがあります。

そうして描くと、慣れれば誰でもそこそこ描けるようになります。陶芸の轆轤と言われる所以だと思います。

 

昔美術館でそれと知らずに、たまたま目に入って衝撃を受けた彫刻がありました。

全体の形としては「粗い」という言葉が一番あっているように思いましたが、肉感的と言いますか、とにかく迫力がありました。

名前を見るとロダンでした。

彼はモデルにずっと動いているように注文した人だそうです。部屋の端から端まで使わせて、動いているモデルをスケッチしていたそうです。

理詰めで作るのではなく、全体の動きを観察することで捉える。と言った感じでしょうか?

そこで見た彫刻は、自分の観察では肩が外れているように見えました。

しかし肩がその位置にあることで大きな動きを感じることが出来るのだろう。と勝手に推察しました。

 

ミケランジェロも人体のバランスを崩して作ります。

しかし、どうも崩し方が違うように思います。これも視覚的、聴覚的という分類にすると分かりやすいように思います。

視覚的なミケランジェロの彫刻は構造的であり、静止的である。

聴覚的なロダンの彫刻は運動的である。

 

どうも当時は芸術家だけではなく、宗教家、哲学者、科学者、一般人、全ての人達が神というものに対して、

むしろ神というものの存在の定義を試行錯誤していたように思います。

ミケランジェロの時代であれば、法則こそが神性を帯び、そこにいる限りは大丈夫。というものがあったように思います。

 

プトレマイオスが体系化した星の周回運動は正円であることを前提にしていました。

それは神が作ったものだから、一番美しい円の形をしているだろう。という思い込みから出来ていました。

それから1500年ケプラーによって楕円であることを補正されるまでそれは信じられてきました。

その後ニュートンによって補強され、アインシュタインによって更なる広がりがもたらされますが、同時に量子力学の発展となりました。

 

そういえば、絵を真剣に勉強していた頃、テレビで画家を自称するタレントさんが、どなたかにアドバイスをしていました。

もっとボヤッとさせるとうまく見える。というものでした。

当時はそれを見て腹立たしかったのですが、今考えるとあながち思想としては間違えていない。とも思えます。技法としては間違いですが。

 

「近似で丸めちゃえば良いじゃない。」という物理学者に対して「美しくない。」と突っぱねる数学者のようです。

雑記34

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どうもシリーズ化してゆきそうな気がします。

写真を見ながら作っていますが、昔やっていたデッサンを思い出しちょっと楽しくなっています。まぁ、すぐ飽きるのですが、、

やはりレンダリングまで調整したい。と思うのですが、Sculptrisで作られたデータはmodoで編集するには重すぎます。マップが描けない。

mariの出番なのだろうか?などと考えてしまいますが、テクスチャを描くだけに10万円は払えません。

 

さて、前回あらぬ方向に飛んでいった絵画についての話を進めます。

自分が学んだ学校では、三年間を通して朝から昼まで人体クロッキーを月曜日から土曜日まで行い、

一年生は午後に石膏デッサンを一年中描き続け、二年生で色数を限定した油絵、三年生で制限が無くなる。

という、今から考えるとなんとも体育会系の教育方針の所でした。

 

講師が口にする言葉も、「調子」という言葉がキーワードになります。

始めのうちは意味が分からなかったのですが、簡単に言ってしまうとシェーディングのことでもあります。

ただ、それだけではなくより広義な意味合いを持っていました。

このあたりも感覚的なもので、言われていくうちに理解が出来るようになります。

現代日本に残る数少ない身体的なものであったかと思います。

 

劇中のブルース・リーの言葉に、「考えるのではなく感じろ。」という言葉がありますが、現代社会に置いては中々理解されないものだと思います。

ネタとして使われることは多々あるかと思うのですが、理屈ではなく感覚で検知されることのほうが実際は圧倒的に多く、しかも言語化ができません。

 

養老さんがどこかで書いておりましたが、英語の論文を書いているときに、微妙な表現が分からず、ネイティブな同僚に表現について質問をしたそうです。

その同僚が言うことには、英語で表現できないものはない。と言われ、一蹴されてしまったそうです。

西洋文明では往々にして言語化できなければ、それは存在しないもの。という認識があります。

言い方を変えると、この世の現象は全て関数化することが可能である。ということです。

そして、それが難しいことである、ということが大々的に分かってきたのが量子力学の誕生になります。

養老さんが書かれていたことだと思うのですが、ゲルマン人とうものは長らく森で生活していたせいか、そういった感覚的な物を理解する才能があるようだ。

とあり、哲学者や音楽家の名前を引き合いに出し、量子力学の基礎である不確定性原理を生み出したハイゼンベルクを引き合いに出します。

視覚的ではなく、聴覚的な文化があるのだろう。という推察だったかと思います。

 

ああ、また話がそれました。

要するに自分が学校で教わったことは脳的ではなく、身体的なものだった。ということです。

どうにも自然物である、身体的なこととは学ぶのにとても時間がかかります。何度も注意されるうちに言われていることを理解してゆきます。

日本に置いては、それが「型」となりさらに発展して、「道」となります。茶道、剣道、書道、華道、全てに共通するものです。

橋本龍太郎さんとう日本の首相がいましたが、それ以前の首相と違い、外国人と比べてもそれ程見劣りしないのは彼が剣道をやっていたからだろう。

ということも書かれていたと思います。そして、力士や歌舞伎役者も同時にそうであることを指摘します。

言われてみれば、なるほどなぁ、という感想をいだきます。

 

日本においては、そういった型というものが個々の道に付属するものとして成り立っているのに対して、西洋ではキリスト教という一つのものが型を作ります。

なので、大抵の西洋人というものはその型の洗礼を受けるので、考えが一義的になると同時に、立ち居振る舞いが比較的立派になる。

作用、反作用のような関係になっています。

 

身体的なこと、ということで思い出しましたが、人間の腸は脳みそに次いで神経細胞が密集する場所です。

自律神経により制御されたその器官は、人間の意識で制御することはできません。

日本では、丹田と呼ばれへその下あたりを指し、恐らくインドのチャクラから来ていると思いますが、気を引き締める際に意識されてきました。

腹に収める、腹に一物、腹黒い。精神的な苦痛を受けると一番に反応する場所でもあります。

腸は何か考えている。そう考えても不思議はありません。そういった考えも西洋文明ではしばしば否定されます。

精神と肉体は別ものである。という根本思想があります。

養老さんはそれに対して、最後の審判を受ける際に魂がアルツハイマーだと困るからだろう。などと皮肉っていました。

 

どうにも本題からそれ続けるようです。

「何やっているんだ、このバカ。」

「それが分かっているから頑張っているんじゃないか。」

「そりゃ、失礼しました。」

自問自答を繰り返します。さらには、「真面目だなぁ、」などと皮肉る始末です。

 

今度こそはきちんと日本における西洋絵画の話に持って行こうと思います。多分。

雑記33

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ちょくちょくいじっております。

どうもSculptrisなどのスカルプトツールでは皺やデティールのあるものの方がしっくりと来ます。いまさらですが、、

人がそのものに求める形の要求というのは、女性の場合は幾何学的な美しさで、お爺さんなどの、言い方は悪いですが汚い物に対して求めるものは

量子力学的と言いますか、フラクタルな美しさのような気がしてしまいます。

 

だからポリゴンモデリングやSDSでは女性を作り、スカルプトではクリーチャーや爺さんを作る。と自分で勝手に納得しています。

 

と、言う事で、技術の話をそっちのけにして、絵画という観点で話を進めてゆこうと思います。

言い訳のようですが、物事を見るに際して様々な道具を使って見ると、色々な物が見えてくる。それの手助けになれば、と思います。

簡単な一例を挙げると、近年流行でもある維新の志士達ですが、言い方を変えるとただのテロリストです。

では、現代のテロリストとの明確な差は何か、となると一番に挙げられるのは武器の殺傷力だと思います。

同一性を求めるのであれば、国を守る気持ち、大事なモノを守りたい気持ちだと思います。

 

話がそれました。

 

自分は幸運にも数年間に渡り、現代では西洋でも教えている所が殆ど無い、というアカデミックな西洋絵画を学ぶことができました。

ただ、あまり身になっていないのは自分が自堕落なせいです。

そこで学んだ事というのは自分にとって新たな視点となったので、書いてみようと思いました。

 

そもそもその学校では、いわゆる芸大を卒業した方々が講師だったそうで、戦後まもなくしてできた学校だそうです。

そして、その講師陣が母校である芸大を否定しているところから始まっているそうです。

明治が始まり、日本に本格的に西洋絵画が入ってきました。始めのうちは地味ではあるが順当に技法が伝わったそうです。

しかし、身分の高い人が西洋で印象派、と現代で言われる人たちの技法を持ち込み、アカデミックなものを駆逐していったそうです。

 

そもそも西洋絵画とはどこに立脚しているのか、ということですが、このサイトでも書いたかと思いますが、元はギリシア、ローマで、その後キリスト教により発展してゆきました。

ギリシア、ローマでは、絵画以上にモザイクや彫刻が一般的でした。油絵具のように永く残せる材料が無かっただけに当然の結果だと思います。

自分は石膏像しか見たことが無いので、実物を見たことはありません。

実物を見た人の話では、ギリシアの彫刻というものはノミの跡が見えるそうで、表現するものの質感に合わせて、細かくほったり荒くほったままで済ませたりするそうです。

このあたりは、その後の印象派に受け継がれているように思います。

そして、ローマでは全てを均一化させ、均等に細かく彫ってあるそうです。

このあたりは、そののちに発展するキリスト教の宗教絵画を思わせます。

 

そして、さんざん壊されたにも関わらず、ギリシアローマで作られた彫刻は現代にも存在します。その理由は時代を問わず、ということでしょうか。

ローマ帝国末期、その彫刻文化が衰退します。

顕著な例はコンスタンティヌスの凱旋門にあります。

時の皇帝コンスタンティヌスがローマ人に建てさせたもので、コンスタンティヌスという人はコンスタンティウスという人の子供で、名前が示すとおり

現在のコンスタンティノープルに首都を移した人です。

当時のローマにはすでに凱旋門を作る技術が無かったそうで、すでにある凱旋門からパーツを持ってきて作られたそうです。

なので、いいとこ取りをしているのですが、さすがにそれだけではまずいと思ったのか、新規で作っているパーツもあります。

しかし残念なことに新たに作られた彫刻は、古い物に比べて圧倒的に劣っています。

その後の宗教絵画を彷彿させる、抽象化や記号化が極端に出てきてしまったものになりました。

 

話がそれましたが、当時から西洋では幾何学的な構築美、ということを意識していました。

画面に対して、彫刻の場合は壁面に対して、対角線や等分線、黄金分割などを駆使し、彫刻の目線、手足の位置、体の流れを決めてゆきます。

理由は簡単で、そういった幾何学的なものこそ美の本質だ。と本気で思っていたからです。

そして、そういった意識で作られたものは、安定感があります。

ちなみに西洋が幾何学に傾倒した理由を建築に求めた人もいました。石造りと木造の違いではないのか?ということです。

それもあると思います。

 

学校に通っている頃に幼い頃に描いたとされているピカソの絵を見る機会がありました。

稀にテレビなどで見るものは、すでにうまいものばかりですが、その時見たものは、それ以前のはじめたて、のような絵でした。

技術的に稚拙な部分が散見されるのですが、構築美、という観点ではすでに出来ています。

日本人では絵を描くことがいくら上手くなってもこればかりは中々真似できません。

恐らく日本人の中には、線は流れるものだ、という解釈があるのかと思います。物語を示すもので、固定位置を示すものではない。と言った感じでしょうか?

 

うーん、最初に書こうと思っていたことと大分ずれました。

めんどくさくなってきたので、今日はこの辺にしておきます。

雑記32

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久々にCGです。

やはり日頃からやっていないと腕が落ちます。当たり前ですが、、

これも当たり前の話ですが、実物を見ないで作ると形の本質が分からないので自分の思い違いで作ってしまいます。

引き出しを多くするためにも模写が必要なことを痛感します。

 

ちょっと前回は余計なことを書きすぎた感じで、補足が必要なように感じたので補足しておきます。

サプリメントと宿り木の話ですが、個人的にはどちらも否定するつもりは全くありません。

むしろ、それで本人の気が済むのであれば、それで良いじゃ無いか。と思っております。

それこそ、養老さんの言う、神経系の情報が、免疫系に作用する。ということでもあるかと思います。

 

前回は書いていてどうにもイライラする気持ちが抑えられなくなりましたが、昨日まで読んでいた本が原因の一つであるように思います。

裁判員制度が始まる以前に、裁判官の方が裁判員制度に対して意義を唱える内容のものでした。

それ自体は全く問題ないと思いますし、書かれている最高裁とマスコミの金を通しての癒着や、制度として不完全な危険性ということは確かに危惧するべきことかと思いました。

 

しかしどうでしょう、そこに書いてあることで疑問に思ったのですが、結局言葉の問題、率いては人間の認識の問題、そして人間中心主義的なものがあるように感じてしまいます。

言葉によって細分化しようとしたら恐らく限りなく細分化は可能だと思います。そしてそれを繰り返すと、物事の本質から大きくズレてゆくように思います。

そもそも人が人を裁くべきなのか?と個人的には思ってしまいます。

統制がなければ、集団は纏まらない。それは尤もなのですが、腑に落ちない部分が残ります。

科学がいくら発展しようと、冤罪が無くなることは無いかと思います。

 

浄土真宗の宗祖である親鸞は「善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや」と言いました。

平たく行ってしまうと、善人が救われるのだから悪人だって救われるだろう。ということです。

親鸞の師である法然という人は裕福な家庭に生まれましたが、家を盗賊に襲われ父を殺されました。父が死ぬ前に決して恨んではいけない。

と言ったそうで、その教えを守り、仏門に入り修行を積んだ人です。

当時の寺は知識が集結する場所であり、尚且つ一部のエリートによって独占された空間でした。

仏教の本質が人を救うことにあり、それを実行するため彼は山を降り街で庶民に説教を行いました。思えば現代の仏教家にそのような人はどれくらいの割合でいるのでしょうか?

そんな彼に惚れ込んだ親鸞という人はさらにその教えを推し進め、念仏を一度でも唱えれば本人が嫌がろうとも阿弥陀様が極楽浄土に連れてゆく。となりました。

 

その後その宗教は政治に利用され、戦国時代、庶民が救いを求めている時に大いに発展してゆきます。

「歎異抄」という本がありますが、そういった間違った方向に進む宗教に対する嘆きの言葉が綴られています。

そういえば、司馬遼太郎さんはこの本を音読して初めて内容を十分に理解することができた。とどこかで書いておりました。

 

余談ついでに書くと、養老さんは浄土真宗は日本において原理主義を形成したことを書かれておりました。

戦国時代に浄土真宗が盛んであった地方では、いわゆる日本の昔話、というものが他に比べて少ないそうです。

不確定さを多分に含んだ、日本の昔話というものは原理主義的な性質に合わないのだろう。だったかと思います。

簡単に言ってしまうと、戦車で妖怪を駆逐する。と言った感じでしょうか?

 

浄土真宗一向一揆となり時の権力者さえも、手に余る状態になした。信長は大弾圧を掛けますが一向に勢力は衰えませんでした。

家康はそれを二つに分け、お互いを反目し合うように仕立てる事で相殺させます。なんとも素晴らしい力学です。

しかし、その片方である東本願寺に肩入れして、幕末の倒幕運動に西本願寺が加担したことは、歴史の皮肉としか言いようがありませんが。

 

話を裁判に戻します。

死刑の執行でいつも思うのですが、三人の人がそれぞれスイッチを押していずれかのスイッチで絞首台が作動するそうですが、

そのスイッチを押す人というのはそれが押したいがために、そこに就職したのでしょうか?恐らく違いますよね?

責任を分散させる、というのであれば渋谷の交差点に振動で発電する装置を埋めて、電気が溜まってきたら執行。の方がよほど責任が分散されるし、なおかつエコです。

 

うーん、結局よろしくない方向に向かってしまっているように思います。

もうちょっと気合を入れないといけないようです。

modo501早く出ないかぁ。

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