ZBrush 8 – Sculptris風Creaseブラシ

いい加減忘れてしまいそうなので、ZBrushの事を書きます。

image801l

modoでここまでの形を作ってからZBrushに持ってゆきスカルプトを始めて見ました。

image802l

SDiv10でこんな感じです。なんだか前に作ったものに似てしまいましたが、ただ自分の引き出しが少ないだけです。

やはり皺に逃げてしまう。細部があると出来た感じが出ますが、気のせいです。

image803l

フレームを表示させると形が単純であるのが見られます。

image805l

それをSDiv7位でmodoに持ってゆき、スカルプトを転写します。

どうもZBrushのどのバージョンからなのか分かりませんが、インポートするだけで転写もされるようです。ただ、今回は失敗しました。

Tool>Exportの値を初期化せずにエクスポートしておりました。

以前ZBrushに興味がないときは、そのパラメータに変な数値が入っているものを初期化する。というのを話半分に聞いておりました。

自分でやってみて初めて分かりました。なぜそういった数値が入るのか分かりませんが、とにかくスケールに1をトランスレートに0を入力しました。

それでエクスポートしたものに以前エクスポートして、リトポしたものをmodoの方で合わせて、再びZBrushに読み込む。という余計な手間をかけてやったので、

前に聞いた言葉が見にしみて理解できました。

image804l

そして、結局皺に逃げました。うーん、ついつい描いてしまう、、

これではいけない、と思いアルファで皺を描くのではなくて自分で皺を書いてみようと挑戦してみました。

以前見つけたSculptris風のCreaseブラシを再発見したので、それを使ってみました。

デフォルトではちょっときつすぎるように思うので、カーブを編集し、先が少し丸くなるようにして使いました。

ただ、SculptrisのCreaseブラシと違うのは、使う感覚だと思います。SculptrisのCreaseブラシはどちらかというと引き算の感覚ですが、

ZBrushのものはやはり足し算の感覚です。これはブラシのせい、というよりもツールの特性のようです。

どちらにしても、あまりにも感覚過ぎて個人的な意見に過ぎませんが、、

image806l

うーん、どうだろう。少なくとも良くはなっていない。しばらく苦行のようにこれを練習台にして、練習に励むのも良いのかも知れません。

そうやって言ってしまうと、やらなそうな気もします。

 

そして、今度は写真を見ながらモデルを作る。ということに挑戦してみました。

image807l

左右非対称にしてみました。以前Sculptrisで作った人と同じ人です。ここまで細部が出来ると楽しいですね。

しかし、同時にここまで細部が出来ると分かることは、皮膚感の難しさだと思いました。どうにもうまくゆきません。試行錯誤してゆくしかなさそうです。

今回はリトポ作業で戸惑うことは無かったのですが、インポートでスカルプトを転写するとうまく行かないことを発見しました。

他のツールとして読み込んで、サブツールで統合し、「ProjectAll」で転写をしてうまく行きました。

 

最初に画像を載せたモデルに比べれば大分良くなってきましたが、まだまだZBrushに慣れていません。

どのブラシが自分に合っているのか、しばらく同じブラシを使わないと分かりません。

今は主に、「Cray」ブラシを使っています。

 

頭部だけで、13.500Milも使ってしまっております。スカルプトはほぼ問題なく出来るのですが、何か処理をしようとするとものすごく待たされます。

しかも落ちたりもします。全身像を作っている人はどうやっているのだろうか?考えるととても気が遠くなります。

まだしばらくこんなことを続けて、そのうち全身像に挑戦してみます。

 

あぁ、そういえば、画像を読み込んでトレースする。というやり方も確か出来るのですよね?

それで思い出しましたが、昔はそうやってモデルを作ってはいけない。という暗黙のルールのようなものがモデラーにはあったように思います。

邪道である。という精神論的なものから、画像に意識が引っ張られて、正確な模写は出来るだろうが魅力的な形は出来ない。

要するに自分で考えて作らないと、形の魅力は出てこない。という物だったかと思います。

自分もそうやって作っていたので、トレースする方法を採ることはありませんでした。

今となってはどっちでも良いんじゃないの?とも思いますが、気持ちを大事にする。ということは大切なのだろうと思います。

雑記49 – 「菜の花の沖」

どうにも負の部分を描写しようとすると、感情的になってしまっていけません。

この本に思いを馳せて、気晴らしをしようかと思います。

 

 

司馬遼太郎さんの小説はほぼ読みましたが、これは最も好きなモノです。

表紙はこんな感じだったのですね、、男臭いです。

 

淡路島出身の農民、嘉兵衛が船乗りを、そして商人になることを目指して奮闘する物語です。

とても地味な始まりです。

北前船、物流という観点から当時の生活、風習を描き出します。

北海道で採れた鰊が近畿で魚肥として使用され、それで成長した菜の花から菜種油が作られ全国へと拡散してゆく。

そういった流れが至る所に組み込まれ、すでに複雑な経済網をなしていたことが分かります。

読んでいると「大航海時代」というシミューレションゲームがありましたが、あれをやりたくなってきます。とても良いゲームでした。

 

そして、自分の店を持つまでに大きくなった高田屋嘉兵衛は、商売において最も重要なことは信頼を得ることである。

という経営思想の元、始めのうちは損を出してでも相手に信頼されることを一番とし、商品の質に拘り商売を拡大してゆきます。

 

当時の北海道である蝦夷地ではアイヌ民族が奴隷のように搾取されていました。

嘉兵衛は君主国ではない日本という国において、幕府の目が届かないところで様々な不正が行われていること目にします。

それらの人たちのため、尚且つより大きな利益を得て、より多くの人たちを助けるために彼は尽力します。

もちろん嘉兵衛も実在の人物ですが、歴史上の人物である、冒険家の間宮林蔵や伊能忠敬なども登場し、雪だるま式にスケールが広がってゆきます。

 

そして当時、後に明治維新という形で爆発するエネルギー、ロシアの圧力、が増してゆきます。

嘉兵衛は、千島列島を測量していて、日本によって拿捕されたロシア人との人質交換の為にロシアによって捕まりました。

彼は頼まれてもいないのに、ロシアと日本を繋ぐため、無駄な争いを起こさないために奔走します。

言葉の通じないアイヌ人は疎か、彼の人徳はロシア人まで魅了したようです。

 

現代では軽視されてしまう、誠実さ、というものがどれほど偉大であるかを教えてくれる本だと思います。

片意地張る必要はないが、ひねくれていても誠実でありたい。そんなことを考えてしまいます。

 

若い嘉兵衛は、淡路と堺を往復する瓦船に乗り込み、当時近畿一体に植えられていたであろう、黄色い菜の花畑をどのような心持ちで見たのだろう。

そんな事を思ってタイトルを付けられたそうです。何とも司馬遼太郎さんらしい、上に登る感じが伝わってきます。

雑記48 – 権利と義務

色々と書きたい記事が溜まって入るのですが、まだ中途半端なので雑記を続けます。

 

人によっては、日本に民主主義が導入された時に、民主主義の二本柱である権利と義務の権利だけしか入ってこなかった。という人もいます。

それと言うのも、民主主義に慣れた日本人は権利ばかりを主張し、そのために払うべく義務を怠っている。という事です。

しかし、どうでしょうか?海外の混沌ぶりを見ていると、日本だけに限ったことではないように思います。

恐らく近代文明というものがそういった方向性を持っているのだと思います。

 

以前テレビを見ていると、インドだったか東南アジアだったか忘れましたが、そこで取材をしているものでした。

ここ数十年で陸地が数百メートル侵食されている。というものでした。

取材中、現地の人がすごい剣幕でカメラに対し怒りをぶつけます。

「お前らがそんな生活をしているから、我々がこんな目にあわなくてはならないんだ!」というものでした。

 

テレビを通してであれば、なんとでも言えます。因果関係を求める人間の思考がそうさせているだけであって、原因はそれだけじゃない。

そもそも地球の気温は変動するものだ。我々はチキンと省エネしている。そもそもそういった短絡的な考えが近代的なのではないか。などなど。

しかし、面と向かってそう言われた場合、そんな理屈はすぐさま屁理屈になります。

 

感情に理屈で答えても纏まらず、感情で答えたならば余計に事を拗らせる。

だからキリストは、右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい。と言ったのだろうと思います。

なかなかそうは行かないから、未だにその言葉が残っているのでしょう。

 

現在の我々の義務の一つとは省エネでしょうか?

もちろん大事に使うことは間違いないのですが、前回書いたとおり無駄に電気は捨てられています。もし、現在ではそういったことが無い。

としても、そもそも電力という物自体エネルギー効率の悪いもので、さらにそれを送るのに垂れ流して送っているようなもので、しかも貯蓄ができません。

止めるわけにも行かないので、夜間も昼間とほぼ同じくらいの電力を発電します。

個人の省エネなど大した問題では無いのかと思います。だからといって無駄に使うのは気が引けます。

恐らく自分はこまめに消す方です。貧乏性、とも言います。神経質になっている訳では無いとは思いますが、無駄に点いていると気にはなります。

それが日本人の性分でもあるかと思います。

そういった性分を持っている人が沢山いると、必然的に消費が抑えられます。日本人にはそういった人が多いのではないでしょうか?

少なくとも、アメリカでは誰もいなくても年間を通してエアコンは入れられる。と聞くと大抵の日本人は驚くかと思います。

だから諦めつつも信じる。となります。数学の証明のようです。

 

そして、再び腹をくくる。について書いてみます。

度々申し訳ありませんが、また養老孟司さんに登場いただきます。

どこかでアメリカ国債について書かれておりました。

要するに日本にアメリカが借金をした、という証明書のようなものです。

本来であれば、国債というものは買った人が売ることで利益を得られる、借金に利子をつけて返してもらう。

というものですが、この場合始めから暗黙の了解で返さないことが前提となっています。

そんな物を後生大事に持っていても、何も意味はない。いっそうのこと皇居の前に集めて燃やしてはどうか?というものでした。何とも過激です。

 

しかし、大抵臭いものにフタをして放置しておくと後で余計に事が拗れます。

そう考えると、日本が世界に向けたメッセージとしては中々面白いように思います。

ただ、それ以前にもう少し自給出来る、国として独り立ちする事から始めたほうが良いように思います。

 

そういえば、もう一つ堅苦しい言葉で、責任、というものがあります。近年では相手を責める場合にしか使われなくなった言葉で、聞くとちょっとギクッとします。

 

結論から言ってしまうと、そもそも人間には責任など取れないと思っております。

出来るとしても、誠実に謝るか、お金で解決するか。のどちらかです。

以前テレビで生命多様性を金額に換算しているものがありました。沖縄の海を試算していましたが、収穫される漁獲類、観光資源、その他諸々を含め金額化します。

唖然として見ていたので、金額は覚えていませんが、数百億?もっと行っていたかも知れませんが、とにかく大金ではありました。

要するにそこでは、毎年それだけの金額のものを生み出す価値のある物なのだから、大事にしよう。ということが言いたかったようです。

そんな言い方をしなければ分からないのだろうか?と疑問に思ってしまったのですが、いかがなものでしょうか?

 

その場合、その自然を破壊した時、自然に対してそれだけの金額を払えば良い。という考えも出来ます。

そんな紙切れ、海に投げ捨てたところで余計に環境が悪くなるだけで、何も起こりません。では、より自然で価値のあるもの、ということで金を放り投げます。

人の物、勝手に取ってんじゃないよ。と地球に怒られそうです。

 

どうすれば責任は取れるのでしょうか?

だから結果的に環境破壊をしたスサノオノミコトは、けじめとして髪を切り、手足の爪を剥いだのではないでしょうか?

 

そういった事を吸収、緩和する為にあるのが村社会でもあります。

しかし、村社会では犯罪が起こると多数決で犯人を特定していたりもしたようです。ある意味民主主義でしょうか?

個人としてはあまりにも理不尽ですが、全体としてはその方が秩序が保たれたのでしょう。きっと。

 

現在の裁判は蛇足判決文というものが多い、と指摘する人もいます。

要するに、有罪無罪、量刑に直接影響しない文章が判決文に添えられていて、人を惑わす余計なものである。と、言う事だそうです。

であるならば、完全にプログラムのように言語化し、証拠物件や証言などに数値でバイアスを掛け、科したい刑でフィルタリングすると完全な判決が出せそうです。

カーナビを作っている会社か、googleにでも作ってもらったほうが良いような気がします。

 

人が生きるとは、死ぬとは、国家とは、現在我々が考えなくてはならない事はここにあるように思います。あまりにも損得だけで判断しすぎているのではないでしょうか?

 

うーん、随分過激になってしまったように思います。もちろん特定の個人や団体を批判するつもりは毛頭ございません。

要するに養老さんの書いていることは、そんな感じのことが多く、その割に簡単にまとめられているので、読みやすいのですが、掘り下げてみたくなります。

雑記47

さて、雑記が続きます。

どうも自分の中では養老孟司さんの仰ることを補足したい。という誠に勝手な思いと、反発したい、というこれまた勝手な思いでこれを書いている気がします。

最近書いていることは、ある程度の知識を集めた中で、自分で感じることを通じ、反発の方の事を書いているように思います。

 

なので、そこに到るまでに補い検証する。という動作が含まれております。その部分を排除して書いてみました。

今度は補足の部分を書いてみたいと思います。要するにもう駄目だろう。というような事柄です。

文章としては最初に落としておいてから持ち上げるのが効果的ではあると思いますが、そういった効果を望んでいるわけではないので、こんな順番になりました。

 

話は若干ずれますが、現在電力会社が大慌てです。

以前から省エネを訴え、今度はさらなる省エネを促します。

自分が計測したことではありませんし、随分昔の話なので今もそうなのか知りませんが、家庭用電源は100Vであるのが日本の規格です。

それを計測すると大体115Vから125Vの電流を計測することができるそうです。

それを電力会社に問い合せてもたらい回しにされて結局答えは貰えないままだったそうですが、恐らくもらったとしても予備のため、だとか言う理由が付けられるのでしょう。

その余った電力は機械の電源に若干のダメージを与えるとともに使われることなく消え去ります。そして消費されます。

消費された分だけ上米をはねることができます。個人に省エネを要請するのであれば、無駄な電気を無くすのが先だろう。という話を以前読みました。

まさかこの事態でまだやってませんよね。と確認したくもなりますが、たらい回しどころか黙殺が良いところでしょう。

 

現代文明というものはそのように、個人の力など無に帰するほどの大きな力を持っています。

それは捕食圧、などを始め自然界に存在する様々な困難を排除する。というバイアスによって長年に渡って培われてきたものです。

人によっては、原子力が発明される以前は宇宙から地球に降り注ぐエネルギー量と地球から放出されるエントロピーは同じであった、と指摘します。

人類は数々のブレイクスルーを通り越し、偉大な発明を生み出したとともに、数多くのパンドラの箱を開けたと言っても過言ではないかと思います。

 

以前、諦める、と信じるを同時に持つ。と意味のわからないことを書いたかと思いますが、それを一言で言ってしまうと、覚悟、になるかと思います。

どうもそう言ってしまうと堅苦しいようで、あまり好きにはなれませんが、要するに腹をくくる。ということです。

 

明日も生きている。という確証は誰にもありません。かと言ってそれを心配する必要もありません。

50億年後に太陽が寿命を迎えることを心配している人はいませんよね?来年のことを話すと鬼が笑うといいますが、この場合はどうなるのか楽しみです。

 

ニュースでは科学者が引っ張りだこで、様々な数値を使い憶測を述べています。

そもそも人によっても、環境によっても、状態によっても変わるもので、それこそ非線形であり、完全な予測などはできません。

記者は、正確な情報、ということに拘ります。これも養老さんの受け売りですが(今に始まったことでもありあせんが、、)、そもそもそんな物は存在しません。

その事柄を見ている人が違う、見ている位置が違う。それだけで事実は全く別物になります。

歴史、という観点で見るとそういったブレ幅が良く計測されます。観る場所(視点のバイアス)が違うので当たり前です。

そして、物理学においてはより厳密な計測をするため微分し、量子力学により不確定性原理が唱えられ、計測しているものがあるのだか無いのだかも分からなくなりました。

 

統計学者は実験物理学を羨みます。

実験室という理想的な環境において、同じことを繰り返してデータを取得できる。ということです。

しかし、これもどうなのでしょうか?この世に同じものは二つとなく、同じ場所同じ時間、全て再現不可能です。しかし、それでも細かいことに目をつぶれば大体同じ結果が生まれます。

それはロケットを飛ばすのに、量子力学は必要でなく、古典力学で十分。ということに似ているかと思います。

統計学も1億年くらいのスパンで見るとそうなるのかも知れません。

 

不可知の物を排除し、視覚に大きく頼って世界を見ると、それなりに便利ではあるが色々と間違える。そんな感じではないでしょうか?

人によっては、人間の脳というものは、捕食から逃れるために進化したものであって、宇宙の真理を探るために作られたものではない。だから使う道具が違うのだ。という人もいます。

しかしそう言われると、捕食から逃れることも、真理の一部に抵触しているんじゃない?と聞いてみたくなります。ただの天邪鬼です。

 

そういえばこんな言葉も思い出しました。

本当の危険はコンピュータが人間のように考えることではない。人間がコンピュータのように考えるようになることだ。

ちょっとドキッとさせられます。

 

どうもこのあたり、遺伝子から脳へ、そして前頭前野へ、という流れに一つのヒントがあるように思います。

今度気が向いたら書いてみます。

雑記46 – 補足

前回工学を軸に日本という国の性質を書こうとしましたが、肝心の工学について大して書いていませんでした。

と言っても、工学を初めとする技術というものについて書こうと思っただけで、工学そのものを書くつもりはありません。知りませんし。

優生学についても肝心の優生学のことを書き忘れていました。それも気が向いたら書いてみます。

 

さて、日本の技術を支えている物、日本人の気質それはどのようなものでいつくらいからそうであるのかが気になります。

どうも日本人の気質の大きな部分、真面目さ、というものを取り出して考えてみるのが良いように思います。

日本人は勤勉で礼儀正しい、というのが海外から見た一般的な日本人の姿のようです。

しかし、江戸時代のはじめ頃に西鶴という人は日本人の商人について、嘆きます。

支那の商人は真面目で、嘘をつかないのに対して、日本の商人は人を騙すこと、少しでも自分が得をするように計略を巡らせる事を嘆きます。

現代では逆でしょうか?しかし、そこには西洋諸国に自国を散々踏みにじられた挙句に、元々弟分でもあった日本に留めを刺された国である事も加味しなければなりません。

 

もちろんそれが全ての日本人像だとは言いませんが、昔はその程度だったようです。

どうやら江戸時代250年の歴史が日本人に勤勉さを植えつけた。と言っても過言ではないようです。

ただ、技術という観点からみると、以前書いたように古くから現場技術を大切にする日本人、というものはあったようです。

特に縄文期の装飾品や工芸品は力強さと、作る喜びを感じさせるものが多々あるように思います。

 

養老孟司さんはどこかで書いておりましたが、60%が降雪地帯である日本において、冬の間何もすることが無い農民を初めとした人々は

その間に工夫を凝らし、様々な機具を発明していったのだろう。と書いておりました。

司馬遼太郎さんも日本の文化は、夏と冬に大きな暇を持て余す農民によって大きく培われた。と書いております。

 

日本の技術は特に極々小さいものに現れます。

中国ではトイレットペーパーは水に溶けないそうで、海外のサランラップは吸着が弱く、日本の物ほど使い勝手が良くないそうです。

そういえば、以前住宅についても書いたことがありますが、近代の日本の住宅というものは何とも味気ない。というものでした。

その時も大事なことを書くことを忘れていました。

尤もそれ程多くサンプリングしたわけでもないし、自分が日本人なので分からないことでもあるのですが、

恐らく日本の住宅というものは、味気はないけれど住みやすいのではないでしょうか?

 

建築についての本をめくると、雨風、湿気、地震に対する肌理の細かい対策が至る所に施されていることを感じます。

そして、個人的には西洋風のホテルに泊まると居心地が悪く感じてしまいます。ついつい和室でグダグダしたい。等と思ってしまいます。

そこで再びストロボの話が思い出されます。

カメラに使われるストロボは、作られた国によって違いがありそれが味となって現れるが、日本のものは数値を元に作られただけの何ともつまらないものだ。というものです。

なるほど、思想のない日本人らしく、勤勉でクソ真面目な姿が思い浮かばれます。

しかし、思想が無い。ということは全てを許容できる強さでもあるかと思います。

 

バブル崩壊後失われた10年と冷やかされていましたが、現在はヨーロッパの多くの国もアメリカも同じような、いやそれ以上の困難を抱えております。

日本の現状は酷い。と良く言われます。確かにそう思うところもありますが、まだ捨てたものではない。とも同時に思います。

 

養老さんは現代が抱える問題、いやむしろ人類が抱える問題を端的に表現します。

それは、エネルギー問題であって、現代に置いては石油の問題である。いずれは枯渇するそれにいつまで頼るのか?ということです。

明治初期に撮影された当時の山は禿山ばかりで、すでに人間によって薪にされつくされたようです。尤も重機を持たない人間が入ることが出来る領域は著しく欠けますが、

要するに日本列島に置いて、三千万人の人口を薪というエネルギーで養うのがやっとだった。ということです。

しかも皮肉にも日本に開国を迫ったペリーが求めたものは、薪と水の提供だけでした。すでに資源が枯渇していたことを知っていたようです。

そして、それに過剰に反応して西洋化してゆく道を歩んだことも、また皮肉な話です。

 

そういえば、私の住んでいる地域では「脱石油社会宣言」などをしているそうです。

とても本気とは思えません。国のあり方、人の生き方、全てを含んだ問題です。地方自治体が頑張ったところで何にもならないのは目に見えているようです。

しかし、個人的にはその流れが大きく進んでゆくのだろう。と楽観している部分もあります。

 

工業においては、最近日本は韓国に遅れを取っている。と報道されることが良くあります。

しかし、その内訳に奇妙な面白さがあります。韓国では自動車も電気機器も日本ほど多く無い、どころか数社だそうで、

それらの企業の利益のほぼ半分は内需によって賄われているそうです。それに対して日本は数多くの会社が存在し、内需ではなく外需に頼った経営をしているそうです。

尤もその数字を出したのも、偏った政党なので半分眉唾で見なければなりませんが、それでも日本人の気質が大きく出ているように思います。

 

養老さんはここまで脳化、近代化したのだから、もう仕方が無いだろう。私はそろそろお暇するので関係ない。と良く書かれます。

しかし、自分としましては、まだまだ、いやむしろこれから。と、思ってしまいます。もちろん希望的観測を含めて、ですが。

ZBrush 7

BPR_Render3

こんな感じになりました。

参考にしたのは、こちらです。

色は塗らずにライトに色を付けました。

素材は、

keylightoccbouncerefrectionfrenelfrontsssbacksss

左から、キーライト、アンビエントオクルージョン、バウンスライト、リフレクション、フレネル、フロントSSS、バックSSS、です。

その他に目と顔を分けるためのマスク画像も作りました。SSSにしか使っていませんが。

フォーラムのページを進んでゆくとSSSの作り方やフォトショップでの合成の仕方が書いてあります。助かります。

合っているのか間違えているのか、自分には分かりませんが、とにかくこんな感じに仕上がりました。

ライトの色調整やSSSの掛かり具合など、フォトショップで調整できるので楽です。

以前modoでSSSを研究していましたが、こっちのほうがはるかに手軽で手っ取り早いです。

勉強になります。

 

そして、今度はGoZを試してみました。

image799l

初めはmodoでキューブを作り、ポリゴンを押し出して首を作っただけです。

ZBrushでスカルプトしながら下位のSDivを削除してゆき、そのたびにmodoに戻ってポリゴンを編集しなおします。

以前GoZについて書いたことがありますが、どうやら自分が間違っていたようで、UVを参考にスカルプと情報が転写されるようで、

きちんとUVを作っていないと転写できないだけのことでした。すみません、、

 

逆に言うとUVをつくり直しても言い訳で、modoでポリゴンを編集した後面倒なので、自動展開、リラックス、UVパックで手早くUVをつくり直してGoZを実行していました。

ただ、職場で作業していたのですが、データを家に持ち帰ると、modoには行けませんでした。

持ち帰ったものがZBrushのデータだけだったのがまずかったのかも知れません。modoのデータとGoZの中間データが必要だったかも知れません。

 

Objでインポートして「Project All」でも同じことが出来るそうなので、今後はそれでやってみようかと思います。

さすがにこういった方法で作ると、ディテールが欲しいところに意図的にメッシュを分割できるので、少ないポリゴン数で細かくスカルプトできます。

当たり前の話ですが、改めて実感します。そしてポリゴンの拘束も受けることになります。

ある程度進んだら完全にリトポしてしまったほうが良いのかも知れません。あるいはスカルプトを先に済ませてリトポして終り。とか。

 

まぁ、人によって色々と作り方があるのだと思います。自分に合った作り方を見つけよう。

雑記45 – 工学という観点から

最近は今更ながらにZBrushにハマっていますが、久しぶりに雑記を書きます。

ちなみにZBrushで作っているゴリラは今こんな感じです。

image798l

まだうまくディテールが作ることができません。皺や毛穴で誤魔化しています。

新たに知ったコンポジットを試してみたいと思います。

 

本題です。

どうも色々と検証してゆくと、日本という国が持つ特異性の顕著な部分は工学ではないか?という思いが強くなってゆきます。

そもそも、世界で初めて大学の科として工学を設立したのは日本が最初です。

明治の当時西洋文明に手っ取り早く追いつくことを目的としていた日本は、その技術の実際的な面を持つ工学を主体に取り入れました。

「思想なんて難しい物は俺にはわからないから、ちゃっちゃと要点を教えてくんな!」という江戸っ子の声が聞こえてきそうです。

 

西洋では科学が主体でした。

階級制度の厳しい西洋では、ブルジョアが嗜みとしてそれを学び、庶民が使う技術として生かされるにはそれなりの年月を要したようです。

それに対し、日本では各農村に鍛冶屋がいて、個人の注文に応じて農具のカスタマイズを行っており、現場レベルの技術に主眼が置かれるようになりました。

それを持って、現代社会で自動車会社や電機会社が多い。という人もいます。確かに国土との比例では圧倒的にそれらの会社は多いです。

しかしそれだけではなく、今昔物語にも皇太子がからくり人形を作り村に襲った飢饉を救ったりもしています。

どうも太古の昔からそういったものが好きなようです。縄文時代の火焔土器などを見ても、どう考えても実用性の無いそれは、作り手の喜びのようなものを感じさせます。

 

西洋ではキリスト教が流行る以前から、現実というものは絶対的なものからの照射によって確立されている。という考えがあり、要するに明確な思想がありました。

キリスト教の流行で科学の進歩が遮られた、という人もいますが、大きく考えるとむしろ躍進させる機動力になっているように思います。

その後アンチキリストの流れが出てくると、それがさらに加速されてゆきました。

 

そういった思想のない日本においては、水を吸うスポンジのように西洋文明を取り入れました。

大した自我もなく、思想もない国民性はしばしば他国から軽蔑されるようです。

養老孟司さんもどこかで書いておりましたが、西洋文化圏で新聞を読むと日本のことが書かれている記事を良く見かけたそうです。

その記事の大半は半ば馬鹿にしたような感じで書かれているものが多かったそうで、欝陶しいので仕舞いには読まなくなったそうです。

どうやら西洋からみると日本という国は、真面目に勉強しているがクラスで一番ではなく、能面のような無表情で、いつもはおとなしいくせに怒らせるとキレる。

いわゆるいじめられっ子、という感じの印象のようです。

 

しかし、それは悪い面を取り出しているだけであって、物事には良い面もあれば悪い面もあります。

自分の感情を無闇に出さずに、周りの人を優先させる。それを日本語では奥ゆかしい、と言います。日本では美徳の一つです。

 

先日の震災でも海外では暴動が起こらない、略奪が起こらないことに驚いています。

なにせ日常で学校に警察官を配備していない国なので、当たり前です。と、言ってやりたくなります。

 

ただ、そういったものが近年崩れて行っている事も感じます。

村社会の崩壊、無縁社会というものです。

自分の幼い頃は村社会が当たり前に存在し、窮屈でもあり、反発心も抱きました。

しかし、いざ無くなってみると随分と寂しいものです。

けれども大きな喜びや大きな不幸があると、突然それらが湧き出す事をしばしば見受けます。

海外では流行することのない村社会的なゲームが、日本だけで沢山売られていることを見ると、やはり皆どこかで望んでいるんだなぁ、などと考えてしまいます。

 

良い悪い、という一元的な物の見方でなく、それを個性として受け止めれば良いんじゃないか?と思います。

そうすると、信じる、と言う事と、諦める、という相反した二つのものが自然に同居できるように思います。

同軸上の二つの点が中程の一つの点を中心に回り始め、やがて対流となり乱流となる。

非周期的な運動のそれは一見不安定だけど、不安定という状態で安定している。それをアトラクターと言い、カオスが発生します。自然界の叙述だと思います。

なんだか意味不明ですが、何となくしっくり来ます。

 

それは個性なんだから、諦めよう。そして信じよう。そう思ってしまいます。

 

偉そうに書いていますが、スポットライトで照射した極々小さい範囲の知識を元にして書いているだけです。

尤も一人で全世界の万巻の書を読み、尚且つ各国を歩きまわり、全ての知識を身に付ける事など個人では到底及びません。

そもそも人間にはバイアスがかかっているので、知ったことと覚えていることは必ずしも同じではありません。

 

書かなくっても良いなら、書いても良いんじゃない?位の気持ちで書いているだけです。

ZBrush 6

BPR_Render2

GeometryHDを使ってみました。レベルを2まで挙げてみましたが、ファイルが600MBになりました。

その割には大した効果はありません。

その機能がいけない、というよりも自分が生かしきれていないだけです。

ZBrushの作品で良く見かける、全身の細密なモデルはどのようにしているのでしょうか?

GeometryHDを使うと「a」キーでマウスを中心に描画出来る範囲が表示されるようになりますが、要はそれ以外は表示されません。

しかも表示されるまでにものすごく時間がかかります。

本当に皆さんこの状態で作業しているのだろうか?と考えさせられます。根気の問題でしょうか?

 

image797l

そして、次はゴリラです。

ClayTubesブラシを使わず、Standardブラシと、Inflatブラシで作ることを試してみました。

どうにもしっくりこなかったので、再びClayTubesブラシを使ってみて、なぜClayTubesを使うのかが理解できました。

率直に言うと、手っ取り早い。だと思います。

盛り上げている箇所が明示的に分かります。そして一気にたくさん盛り上げることができます。楽です。

 

以前削るのではなく、足してゆくモデリング、と書いたかと思いますが、削ることもあります。

そして、再び学生時代に先生に言われたことを思い出しました。

一度だけ人の顔の彫塑を教わったのですが、削るときは必要以上に大きく削ったほうが良い。と言われました。

削ったところを修復するにはそれ以上に盛る必要が出てくるので、中途半端に削ると形が崩れる。

躊躇しないで一気に削り、骨格や筋肉に合わせて盛って行く。というものでした。

 

情けないことに、まだ中々そこまでは踏ん切りがつきません。

もっと慣れてゆけば自然とできてゆくんだろうなぁ、と漠然と思っております。

うーん、しかしこのまま技術が進歩し続け、CG特有の面倒くさい事が解消されてゆくと、原型師や造形師の人たちの方が圧倒的に有利じゃないかな?

という随分前から言われていることを改めて感じてしまいます。

まぁ、それはそれで良いでしょう。先の事を考えていても仕方がありません。

作っていて楽しいからそれでいいや。

ZBrush 5

SculptrisからZBrushに持って行くテストをしてみました。

image794l

局部的ににしか手を付けていませんが、こんな感じです。

image795l

これが元です。

 

理想的にはSculptrisの自由度とZBrushの精密度を持つことだと思うのですが、

やってみた感想は、うーん、というものです。

もちろん、まだテストが足りませんが。

 

Sculptrisで作られるモデルは全て三角形であることが危惧されましたが、全てが三角形であれば、それ程気にはなりません。

ただ、細かい部分でどうしてもスムース掛けられないところが出てくるので、皺を描いて誤魔化すしか無いようです。

しかし、この二つのツールが完全にリンクするとそれなりのものになるような予感はします。

だからPixologicはSculptrisの開発者を社員登用したのかな?と今更ながらに思います。

 

ただ、確かにスケッチ感覚でスカルプトはできますが、指などの細かい所はSculptrisでは難しいかと思うので、そのあたりに改良の余地があるかと思います。

Zbrush4

BPR_Render

こんな感じになりました。無理矢理な感じが否めませんが、今後に生かしてゆきたいと思います。

うーん、しかし凄いチュートリアルであることを改めて痛感します。

 

後はひたすら手を慣らして、ZBrushの機能を理解してゆくことに努めたいと思います。

アニメーションが親切に解説されております

レンダリング、ライティングの基本が分かります

図版が見やすい美術解剖書です