雑記23 – ネット・バカ
偶然見つけた新聞の書評で知りました。
その書評を書いていたのは養老さんでした。
バカつながりで読んだのか?などと冷やかし半分で借りて読みましたが、内容の濃さにびっくりです。
ちなみにその書評は一語足りとも覚えていません。ちゃんと読んでおけば良かった、と後悔しています。
洋書のタイトルは随分違うようですが、キャッチーなものを選んだようです。
著者は長らくコンピュータ関係の仕事をしていた人だそうで、その仕事がら
メールクライアントを常時起動させ、各種リーダーを購読し、様々なSNSに登録し、あたかもコンピュータに急かされるように
情報を集め、さながら満腹中枢を破壊されたねずみのように過ごす日々で、
以前よりも情報を効率的に処理する能力はついたが、その情報を殆ど覚えていない。
という状況に、もしかしたらネットを使っていると脳みそが劣化するのか?というちょっとお馬鹿な疑問から出発します。
ニーチェは戦争時に落馬して文筆活動を停止したそうですが、タイプライターを手に入れることで再び活動を再開したそうです。
しかし、友人の指摘はそれ以前のものと文章が違う。というもので、ニーチェ本人もそれを認めています。
猿に熊手を使って餌をとることを覚えさせると、脳が活性化されてゆきます。
さらにそれを続けると、猿は熊手を見たときに手の一部であることを認識するそうです。
もちろんこれは人間にも当てはまります。
たかが道具、といいますが、場合によっては人は道具に支配される、ということを色々な実例を持ち出し分析してゆきます。
そして、脳の可塑性に言及します。
やっぱりそうなのか、と言いたいところですが、西洋では長らく脳は一つのもの、という認識だったそうで、
複数の細胞によって構成されている、という認識はフロイトくらいからのごく最近のもののようです。
複数の細胞で構成された脳は、複雑なネットワークを形成し、壊れるとそれを再構築します。まるでインターネットのようです。
猿の手の神経を切断し、回復するまでの実験が書かれています。
初めは脳も、神経も混乱を生じますが、しばらくすると新たなネットワークを構築します。この柔軟さが可塑性です。
しかし、柔軟ではあるが、弾力がないと指摘します。
一度伸びきったゴムが戻ることが無いのと同じように、鬱病から立ち直った後の強迫観念などの例を引き出します。
マウスの実験の話が出ますが、細胞がタンパク質を合成できなくする抗生物質を投与すると、長期記憶が保存できないという結果から、
記憶というソフトウェアはハードウェア的な変化を伴う、と結論づけます。
精神(ソフトウェア)が脳(ハードウェア)に影響し、脳が精神に影響する、という機械では考えられない事態が起こります。
西洋的な考えでは人格、精神というものは確たるものが存在し、肉体はあくまでも入れ物でしか無い。
と考えます。
この考えは現代の日本にも大いに影響を与えていると思います。
何者にも影響を受けずに、人格という固定されたものが存在すると勘違いを起こします。
一義的なものの見方で世の中を見ると、大変わかり易く物事が見えます。だからマッカーサーは成人日本人はアメリカ人の12歳程度、
と断言できたのだと思います。
断言するとカッコいいのですが、実は間違いだらけです。
このあたり、ニュートン力学と量子力学の対比のように見えてしまいます。
そして、文字の歴史の部分ではソクラテスが出てきます。
元々エジプトの影響だそうですが、ソクラテスは文章に書く事を拒み続けました。それらを書いたのは弟子のプラトンです。
文字を書く事で記憶を文字に任せ、大事なことを覚えられない。本当に大事なことは文字にはできないことだ。
というのがソクラテスです。
そして、現代では記憶のアウトソーシングはネットに移ります。
無駄な記憶を貯めないために、そういったものはネットで済ませよう。そういった試みがあったようですが、残念ながら失敗したそうです。
記憶のメカニズムについて長く書いてありますが、要は脳は記憶することでネットワークがより複雑になり、簡単にいうと頭がよくなる。
脳の記憶容量はある意味無限で、そもそもコンピュータのメモリとは記憶の質が違うことを指摘します。
で、結局バカになるのかならないのか、というところを言いますと、明言は避けています。
自分次第だろう。という事だと思います。
西洋の人が書いたものは大抵一義的で、読んでいると釈然としない部分が残ることが多いのですが、個人的にはすっきりしました。
とてもいい本です。
余談ですが、グーグルの人が言ったことだと思いますが、今後人は成人になると改名するようになるのでは?という記事がありました。
その原因は、早くからネット社会に関わることになるこれからの人達は、若さ故に様々な過ちを犯し、
それとは違う名前で新たにきちんとネット社会と付き合う必要性を感じるようになるのではないか?というものだったかと思います。
昔の日本は成長にあわせ名前を変えました。その社会では絶対的な人格というものはありませんでした。
そういったものが消えつつ、一義的なものの見方しかしなくなる世の中に対して、バカの壁、と毒づきたくなる気持ちも分からないでもないなぁ、と感じました。
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