雑記42 – 自然と人工

久しぶりに雑記を書きます。

次にどう行った形で書いてゆこうか色々と迷っておりましたが、やはりもう一度本質的な部分に触れてみたいと思います。

 

度々ここで自然と人工、もしくは体と頭についての対比をしましたが、身近な例を挙げてもう少し考えてみたいと思います。

どうも人間は人工物、幾何学的な物、人間の頭から生み出されたものに対しての羨望があり、

それでいて自然物、複雑系、身体的なものに対しても憧れを抱きます。

 

それを街に当てはめてみると、身体的な欲望に訴えかける必要がある飲食店では、鉄筋コンクリート造りであっても

内装には木を多用し、店の看板は手書きで書かれることが多いように思います。

それに対して身体的なものを隠す必要がある店ではより幾何学的、無機質な形態を採るようです。

洋服屋や理髪店などはそういったものに属し、店の看板はより幾何学的なゴシック体で書かれることが多いように思います。

 

もちろん例外はあります。

 

その例外の端的な例は、以前テレビでビートたけしさんが仰っていましたが、

外国でフォーマルな飲食店に短パンで入ろうとしたそうです。もちろん入り口で止められます。

店員が言うには、足の甲にかかるくらいのズボンを履いてくるように言われたそうです。

要するに脛毛や足の肉感的な形状や質感は隠してください。という事だと思います。

そこで、たけしさんは短パンを下げ、言われたとおりに短パンの裾を足の甲にかかるくらいにして店に入ろうとしましたが、

慌てた店員は短パンでいいから、きちんと履いて入ってください。と無事に食事を済ませることができたそうです。

 

どうも人間は自然物に対して大きな恐れを抱くようです。

ただ隠しているだけであって、内容は変わらないにも関わらず取り繕おうとしてしまいます。

 

自分も含め都会に住む人間はより人工的に、脳的になる傾向があるようです。

都会という物自体もさんざん人間が苦しめられてきた自然から乖離するために生み出されたものであることを考えると当然の作用に感じます。

だからより身体的である子供は虐待され、老人は放置されます。

都会では50代60代の男性の孤独死が増えているそうで、それの後始末をする専門の会社が増えています。

 

古い社会では子供は宝として扱われ、老人も大切に扱われました。

脳的、金銭的に物事を考えると、無駄を省く傾向にあります。ですがどうも無駄をどんどん省いてゆくと何も無くなるのだろう。とも思います。

万人が納得する無駄。というものは本来有り得ないのではないでしょうか?

量子力学が全てを表現するとは思いませんが、あらぬ方向を向いたベクトルが存在することで光の挙動を近似で求められることを考えると

あながちそういったものも必要なのだろう。などと思ってしまいます。

 

先日通勤していると、電柱の根元に「バサッ」という音がして物が落ちてきたので、不思議に思い視線を向けると鳩の両羽とそれに付いた

体の一部が落ちていました。あぁ、それでバサッ、なのか、などと感心して見てしまいました。

以前テレビでカラスが鳩を食べる。というのを見ていたのでその類のものだろう、と思い電柱を見上げると案の定、一羽のカラスが肉を咥えて辺りを見回していました。

そのうちにそのカラスと目が会い、少しギョッとしてしまいました。

カラスは周りに敵がいないか警戒しているようでもあり、こちらに対して恐怖をいだいているようでもあり、食事の途中で落とした獲物を心配しているようでもあり(折角の手羽!)、

まん丸としたその黒い瞳はおどけているようでもあり、愛らしくもありました。

何となく苦笑いをしてそのまま立ち去りましたが、人は主観で自然を定義しようとします。ただ意味もなくそこにある。むしろ意味を見つけようとするのが人間だ。などと思いました。

 

昔物理の授業を受けた記憶があります。

理数系の苦手な自分がなぜそれを受けていたのかは、今となっては永遠の謎ですが、その授業で先生がいっていた一言を今でも覚えています。

「この世に存在する全ての物の運動を計測し、それを元に方程式を作ると未来に起こること全てが予測できる。」というものでした。

後になって知りましたが、17世紀の物理学者ラプラスという人が言った言葉です。

当時ニュートン力学の発展により、全てが予測可能なのではないか、という科学の奢りがありました。その後その奢りはさらに進んで、

予測可能ではなく、変更可能だ。などといった人もいます。ノン・フォイマンという人でした。

 

しかし、この世の全てを記録するにはそれを凌駕するインクと紙がなければ駄目だ。と反対する人もいました。

さらには、もしそれがあったとしても、書いたり媒体に記憶させる時点での量子的な運動も計測しなければならず、さらにそれを計算している運動も計算しなければいけない。

要はゼノンの逆理が発生します。

 

まぁ、要は良く分からないことは色々あるよ。というだけの話です。

どうも最近テレビの討論番組などを見ていると、未だにラプラス的なものの考え方をしている人が沢山いるんだなぁ、という印象を受けます。

養老孟司さん風にいえば、こうすればああなる式の考え。という事だと思います。

明日の約束、100%守れますか?隕石に当たって死ぬ人もいますけど。と聞いてみたくもなります。

科学は発展しましたが、明日の天気が当たる確率は大体70%~80%だそうです。下駄を投げても50%当たることを考えると微妙な気持ちになります。

 

長くなったので、今回はこの辺で。

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