雑記48 – 権利と義務
色々と書きたい記事が溜まって入るのですが、まだ中途半端なので雑記を続けます。
人によっては、日本に民主主義が導入された時に、民主主義の二本柱である権利と義務の権利だけしか入ってこなかった。という人もいます。
それと言うのも、民主主義に慣れた日本人は権利ばかりを主張し、そのために払うべく義務を怠っている。という事です。
しかし、どうでしょうか?海外の混沌ぶりを見ていると、日本だけに限ったことではないように思います。
恐らく近代文明というものがそういった方向性を持っているのだと思います。
以前テレビを見ていると、インドだったか東南アジアだったか忘れましたが、そこで取材をしているものでした。
ここ数十年で陸地が数百メートル侵食されている。というものでした。
取材中、現地の人がすごい剣幕でカメラに対し怒りをぶつけます。
「お前らがそんな生活をしているから、我々がこんな目にあわなくてはならないんだ!」というものでした。
テレビを通してであれば、なんとでも言えます。因果関係を求める人間の思考がそうさせているだけであって、原因はそれだけじゃない。
そもそも地球の気温は変動するものだ。我々はチキンと省エネしている。そもそもそういった短絡的な考えが近代的なのではないか。などなど。
しかし、面と向かってそう言われた場合、そんな理屈はすぐさま屁理屈になります。
感情に理屈で答えても纏まらず、感情で答えたならば余計に事を拗らせる。
だからキリストは、右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい。と言ったのだろうと思います。
なかなかそうは行かないから、未だにその言葉が残っているのでしょう。
現在の我々の義務の一つとは省エネでしょうか?
もちろん大事に使うことは間違いないのですが、前回書いたとおり無駄に電気は捨てられています。もし、現在ではそういったことが無い。
としても、そもそも電力という物自体エネルギー効率の悪いもので、さらにそれを送るのに垂れ流して送っているようなもので、しかも貯蓄ができません。
止めるわけにも行かないので、夜間も昼間とほぼ同じくらいの電力を発電します。
個人の省エネなど大した問題では無いのかと思います。だからといって無駄に使うのは気が引けます。
恐らく自分はこまめに消す方です。貧乏性、とも言います。神経質になっている訳では無いとは思いますが、無駄に点いていると気にはなります。
それが日本人の性分でもあるかと思います。
そういった性分を持っている人が沢山いると、必然的に消費が抑えられます。日本人にはそういった人が多いのではないでしょうか?
少なくとも、アメリカでは誰もいなくても年間を通してエアコンは入れられる。と聞くと大抵の日本人は驚くかと思います。
だから諦めつつも信じる。となります。数学の証明のようです。
そして、再び腹をくくる。について書いてみます。
度々申し訳ありませんが、また養老孟司さんに登場いただきます。
どこかでアメリカ国債について書かれておりました。
要するに日本にアメリカが借金をした、という証明書のようなものです。
本来であれば、国債というものは買った人が売ることで利益を得られる、借金に利子をつけて返してもらう。
というものですが、この場合始めから暗黙の了解で返さないことが前提となっています。
そんな物を後生大事に持っていても、何も意味はない。いっそうのこと皇居の前に集めて燃やしてはどうか?というものでした。何とも過激です。
しかし、大抵臭いものにフタをして放置しておくと後で余計に事が拗れます。
そう考えると、日本が世界に向けたメッセージとしては中々面白いように思います。
ただ、それ以前にもう少し自給出来る、国として独り立ちする事から始めたほうが良いように思います。
そういえば、もう一つ堅苦しい言葉で、責任、というものがあります。近年では相手を責める場合にしか使われなくなった言葉で、聞くとちょっとギクッとします。
結論から言ってしまうと、そもそも人間には責任など取れないと思っております。
出来るとしても、誠実に謝るか、お金で解決するか。のどちらかです。
以前テレビで生命多様性を金額に換算しているものがありました。沖縄の海を試算していましたが、収穫される漁獲類、観光資源、その他諸々を含め金額化します。
唖然として見ていたので、金額は覚えていませんが、数百億?もっと行っていたかも知れませんが、とにかく大金ではありました。
要するにそこでは、毎年それだけの金額のものを生み出す価値のある物なのだから、大事にしよう。ということが言いたかったようです。
そんな言い方をしなければ分からないのだろうか?と疑問に思ってしまったのですが、いかがなものでしょうか?
その場合、その自然を破壊した時、自然に対してそれだけの金額を払えば良い。という考えも出来ます。
そんな紙切れ、海に投げ捨てたところで余計に環境が悪くなるだけで、何も起こりません。では、より自然で価値のあるもの、ということで金を放り投げます。
人の物、勝手に取ってんじゃないよ。と地球に怒られそうです。
どうすれば責任は取れるのでしょうか?
だから結果的に環境破壊をしたスサノオノミコトは、けじめとして髪を切り、手足の爪を剥いだのではないでしょうか?
そういった事を吸収、緩和する為にあるのが村社会でもあります。
しかし、村社会では犯罪が起こると多数決で犯人を特定していたりもしたようです。ある意味民主主義でしょうか?
個人としてはあまりにも理不尽ですが、全体としてはその方が秩序が保たれたのでしょう。きっと。
現在の裁判は蛇足判決文というものが多い、と指摘する人もいます。
要するに、有罪無罪、量刑に直接影響しない文章が判決文に添えられていて、人を惑わす余計なものである。と、言う事だそうです。
であるならば、完全にプログラムのように言語化し、証拠物件や証言などに数値でバイアスを掛け、科したい刑でフィルタリングすると完全な判決が出せそうです。
カーナビを作っている会社か、googleにでも作ってもらったほうが良いような気がします。
人が生きるとは、死ぬとは、国家とは、現在我々が考えなくてはならない事はここにあるように思います。あまりにも損得だけで判断しすぎているのではないでしょうか?
うーん、随分過激になってしまったように思います。もちろん特定の個人や団体を批判するつもりは毛頭ございません。
要するに養老さんの書いていることは、そんな感じのことが多く、その割に簡単にまとめられているので、読みやすいのですが、掘り下げてみたくなります。
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