雑記54 – 物の名前

物の「真の名前」を知ることは、その物の支配に通じる。

と、西洋文明では言われます。

日本でも、陰陽師と呼ばれる人たちは相手から呪(しゅ)を掛けられることを避けるために本名を明かすことはしませんでした。

果たしてこれが意味することはなんだろう?と考えてみました。

また養老孟司さんを引き合いに出してしまい申し訳ないのですが、以前どこかでこんなことを書かれておりました。

そもそも解剖学というものは世の中に名前が付けられていないものは人間の体の内部だけとなり、その目的で発展した。

だったかと思います。

そして、その矛盾点として人間の体の内で、明確に区分できるところというのは割合少なく、勝手な定義による分断が行われた。

それは線を無限に分断してゆく作業に似ているように思います。

端的な例では、胃と食道というのは弁という構造で明確に別れてはいるが、胃に近い食道部分の細胞は胃の細胞で構成されており、

機能的に見ると胃であることが分かるそうです。

ここでも、構造という視覚的な観点からの区分けが機能的、運動的なものを省いてしまっています。

人間が物に名前を付けるのは、整理し理解する。という行動の一つかと思います。

そして、その知識が土台となり人は地に足を付けて物事を考えているように思い込み、錯覚します。

地に足を付けて安定する。ということはそれに拘束されて考えの幅を狭める。という逆説的な効果も生み出します。

敬虔な宗教者は優れた人格を持ちますが、同時に拘束されている。ともいうことが出来るかと思います。

人は地に足をつけたがる性質があるので、それらを求める。という事もできるかと思います。

量子力学においては、電子の位置を特定しようとすると運動が分からなくなり、運動を特定しようとすると位置が分からなくなります。

電子という微細なものを検出するのにγ線などを当てると、電子はすっ飛んでしまいます。

知覚する、という動作が対象物に影響を及ぼす。これは呪術でしょうか、科学でしょうか。

ミクロとマクロは別物とするか、マクロもミクロで構成されているものと考えるか。考え方により変わってきます。

自然科学者と呼ばれる人たちはそれ以前、哲学者と呼ばれていました。

ギリシア哲学は、紀元前五百年頃の人タレスを祖にしている。といわれます。

いつも考えにふけっている彼は、ある日川に落ちたそうです。それを、からかわれ、哲学なんて何の儲けにもならない事をしているからそうなるんだ。と言われたそうです。

哲学こそがこの世を理解する物だ、との確信を持っていた彼は、その後二年間の歳月をかけ気象や天体を観測し、小麦の豊作を予測しました。

そして彼は街中の製粉機を借りたそうです。実際に小麦が豊作となり、皆が製粉機を借りに来たので大儲けしたそうです。

また彼は、太陽は天空に浮かぶ岩石に過ぎない。とも喝破しています。

その後科学は唯物論とつながり、さらなる発展をしてゆきます。

唯物論と科学が仲が良いのは、ニュートンがプリズムによる光の分光を見つけた事を引き合いに出すと分かりやすいかと思います。

かれは白い光は、それ以外の色の光が合わさることで白くなる。要するに全体は部分の構成に過ぎない。と結論しました。

それに対して、同時期にゲーテも光の観測をしています。

そして彼は、全体というものは部分の総和以上のものがある。と結論づけました。

物にはその物を構成する本質的な要素がどこかにある。と考えたのです。どちらかというとプラトン的な考えだと思います。もちろんほぼ無視されました。

今後の人類の発展は科学的なのでしょうか?非科学的なのでしょうか?それとも非線形科学?

まぁ、先のことは分からない。

コメント/トラックバック (1件)

  1. 技研 | 雑記 - 雑記65 – 収束 のコメント:

    [...] 名前と虹のところで書こうと思っていたのですが、忘れていたので、書き足します。 [...]

コメントする

post date*

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

トラックバックする

トラックバック用URL:

アニメーションが親切に解説されております

レンダリング、ライティングの基本が分かります

図版が見やすい美術解剖書です