雑記65 – 収束

どうも最近サボリ気味です。他のことをしているので仕方がない。

 

名前のところで書こうと思っていたのですが、忘れていたので、書き足します。

 

どうも人間の意識というものは収束する傾向にあるように感じます。
それこそが、意識である。とでも言わんばかりのように思います。

 

名前を付けたり、色数を区分けすることで、物事がその方へと収束していく。そんな感じでしょうか?
例えば、自分は霊が存在するか?という問に対しては首をかしげます。
しかし、通常人間が知覚できないものがこの世に存在するか?という問に対しては当然の如く頷きます。

 

霊、という区分けを作ることで、意識がそちらに滑るように移行します。
そういった意識で物を見ると、より一層霊の存在を強く認識するのだと思います。

 

以前どこかで養老孟司さんが書いておりましたが、幽霊を見てびっくりした人がその拍子に骨折したとしたら、
その人にとっては幽霊という存在が現実のものとなる。と書かれておりました。
読んだ当時は良く分からず、それは客観的事実では無いのでは?と考えておりました。
しかし、よく良く考えてみると、当人に取って事実であることを客体が否定をすることは難しい。ということに気が付きます。
要するに客体というものは、さも当然のように使われる言葉ですが、自分を客体であると認識している人はこの世に一人としていません。

 

さらに、人間の脳には補正機能が入っているので、冷静であれば間違うことの無いような事でも、
恐怖感などにより冷静さを失うと、およそ人形でないものでも、人形であると認識し、浮いている人形、イコール霊と単純な式を作ってしまいがちです。

 

言葉は力を秘めている。ソクラテスや古代の日本人はそう考えていました。
物事を認識する。という動作はそれに名前を付ける、という副次的な効果をもたらし、その副次的であったものに人間の脳は囚われ、
今度は反対にそうである。という認識のもとに物事を観察するようになる。
だから必然的に言葉には力が宿る。

 

さらに面白いことに、その作用が現象や対象物に及ぶ可能性を示唆する言葉があります。名は体を表す。
これはどういう事でしょうか?CGの世界では光の計算を端折るために現実世界とは反対の事をして、絵を作ることがあります。レイトレースといいます。
名は体を表す。という言葉はそれと同じように、カメラから物体を浮かび上がらせるような効果のように思います。
もっともそれが全てに当てはまるか、となると疑問が残ります。名前負け。という言葉もあります。

 

以前ミラーニューロンについて少し書きましたが、一部の霊長類に存在する脳神経細胞で、相手の行動をあたかも自分がしているかの如く認識する細胞です。
では、それ以外の動物などにはそういった現象は起こらないのでしょうか?
少なくとも脳神経細胞という観点からは無いようですが、同期という観点からはあるようです。
同期は、TVアニメを見ていた子供が瞬間的な明滅を繰り返す場面で脳が同期し、発作を起こしたり、ルータのトラフィック原因になったり、
周期的な運動を繰り返す惑星や衛星にまで影響を及ぼします。
そう考えてゆくと、最先端の科学を研究する学者が、時たま新興宗教などに傾倒するのも無理は無いように思います。
それも言葉で区切られているから、そうなってしまう作用で、人間はこの世のことを殆ど知覚できない。と考えていれば問題ないように思います。
どちらにせよ、信じるものは救われる。かな?

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