雑記73 – 本気度とアウトソーシング

本気度、という勝手なパラメータを設定して世の中を見ると面白いものが見えてくるように思います。
例えていうならば、東京のビルには警備員が配備されているビルがあります。
大きなビルを数人で守っています。彼らの武器は警棒ですが、どうも原則的には使用してはいけないようです。

 

もし、本気でそのビルを占拠しようと、本気で訓練を積んだ人たちが、本気の武装で襲ってきたらどうなるのでしょうか?
恐らく制圧に数分か数秒で出来てしまうと思います。
しかし、法治国家である日本では、そういった事態が起きてもすぐに警察が駆けつけて鎮圧するかと思います。
もっともそもそもそんな事を考える人がいない。というのが実際かと思います。
それに、本気で警備されたらこちらが困ります。通る道にそのような建物があったら間違いなく迂回します。
警備員も人間なので何が起こるか分かりません。

 

自分はタバコを吸うので、ライターを持ち歩きます。
石を擦って火を付けるタイプの物は、石がなくなったときに擦ると奥歯が浮いたような感覚を覚えるので電気式の物を使います。
先日ライターのガスが無くなりました。そんな事もあろうかと、随分昔に予備をかばんに忍ばせていたことを思い出し、自分の周到さに自画自賛しながらそれを使いました。
火がつきません。
ガスは沢山入っていても点きません。ガスが無くなったライターを発火用に使うと無事に使えます。
電気式のライターは電池が自然放電して発火できなくなったようです。
自分の浅はかさ、道具の素晴らしさ、火を起こすことの大変さを改めて知って愕然としました。
要するに本気ではない。
マッチを持とうが、火打石を持とうがいずれは無くなります。普段道具が当たり前のようにあり、当たり前にそれらを使っているとありがたみが分かりません。
怪我をしたり、病気をした時に始めて健康体の素晴らしさを知ります。痛みを伴わないと人間は生きている実感を忘れるようです。

 

どうも自然の方向性として、アウトソーシングというものが一つのキーワードになるのかと思います。
生命は情報を外に出すことでDNAから脳へと進化しました。
そして、その脳は更に情報を外に出すためにコンピュータを使います。だからクラウド化なのだと思います。

 

携帯電話のない当時、電話番号は暗記していました。
その固有の番号は、相手を想起させるキーワードにもなり、ただの数字の羅列がとても大切なもののように感じていました。
今では、暗記しようとすらしません。
カーナビがない当時は、道を覚えました。道を覚えることに慣れると、道の雰囲気を嗅覚のようなもので嗅ぎ分けられるようになります。いや、正確にはそのように感じる、でしょうか。
とにかく、迷っても大体の見当で大体目的地に着くことが出来ました。迷うことを楽しむことが出来ました。
カーナビに慣れると、効率的に目的地に着くことを優先させます。無駄を排除します。
どうやら、情報だけでなく感覚すらもアウトソーシングされるようです。

 

ただ思うことは、別段それらを否定することもなく、便利なものは使うべきだ。と、思っております。
以前紹介した、「ネットバカ」という本では、本の執筆に際し、著者は山篭りをして情報を遮断したそうです。
最初のうちは禁断症状のように、最新情報やメールの着信が気になったそうですが、しばらくするとそれらを忘れ、ゆっくりとした時間を体感し、執筆に集中できたそうです。
執筆がほぼ終わった段階で、再び街の喧騒の中に戻ったそうですが、目まぐるしく飛び交う情報、次々と新しくなってゆくハード、それらに目眩を覚えたそうですが、
それに慣れてくると、それらのクールな機器を使わないでおくべきか。と、再びその世界へと戻ったそうです。思わず読んでいて笑ってしまいました。
養老孟司さんと対談した宮崎駿さんも仰っていましたが、若い頃は裕福になるに連れて周りの人々が車を持つことに反感を持っていたそうです。
しかし、ご自身大の車好きで、やがて自分も車を持ってしまう。そして、車に乗って暑い時などはついついエアコンのスイッチをひねってしまう。
これはどうも仕方がない。という宮崎さんに対して、養老さんは、それは仕方がない。と仰っておりました。これもクスリと笑ってしまいます。

 

大きな流れに対して、個人の行動など意味が無い。そう思います。
しかし、また同時に、個人個人の行動が大きな流れを変えてゆく。ということもあります。まぁ、どちらにせよ考えても仕方が無いので、川の流れに身を任せなすがママ。といった感じでしょうか。
アウトソーシングという外部受託は責任を不明確にする。とうい作用をもたらします。
だから真面目に仕事をこなしていると、面白いゲームは出来上がらない。という結果を生み出します。
思えば、こんなはずではなかった、という言葉は太平洋戦争以降に聞かれるようになった気がします。
当時戦争を指揮する立場にあった人たちは一様に口をそろえて、そう言います。
戦争当時、戦車隊長として中国大陸で戦っていた司馬遼太郎さんは終戦間際、本土決戦に備え帰国したそうです。
栃木県佐野の駐屯基地から戦車隊を率いて、首都防衛に当たる。という任務を受け持ったそうです。
会議の際に、日光街道を南下する、と発言する上官に対し司馬さんは、恐らく道は逃げ行く人で溢れている、どうやって東京に向かうべきか。と質問したそうです。
それに対して上官は、顔を真赤にして怒りながら「轢き殺して進んでゆけ。」と言ったそうです。幸いそれ以前に終戦を迎え、そうなることは無かったそうです。
どうやら日本は日本軍によって占領されたようだ。というのが司馬さんの感想でした。

 

恐らくその上官も真面目な人だったのだろうと思います。
近代日本にはそういった例が枚挙に暇無く存在します。
養老さんは東大の研究生だった頃に学生運動を目撃します。ゲバ棒を持った学生たちが研究室に入りなり入ってきて、「この非常事態に不謹慎な!」
と怒られたそうです。非国民扱いされて追い出された。というようなことを書いていたように思います。
校庭を見ると、竹槍訓練をしている学生たちがいたそうです。養老さんが幼い頃に見た光景で、学生たちは知りもしないのに同じ事を言い、同じ事をやっている。
そんな養老さんは、どうやら非国民でも無く、無国民になったようだ。とどこかで書いていました。
ニュースを見ていると、コメンテイターが声を荒げ「こんなことは許されるべき事ではない、国民は怒っている!」と、言っていたそうです。
その人に意見を預けた覚えはない。とあったように思います。すみません、不確かです。しかし、笑ってしまいました。

 

なんだか話が変わってしまいました。
どうも最近、こうあるべきではないか、こうしたほうがいいのではないか、という思いが無くなりました。だから書くことがよくぶれます。
君子豹変、とは人を従える人は、状況に合わせて柔軟に意見を変えて現実に対処する。という意味でした。
最近の政治家はぶれないことを良くモットーにしています。錯覚や思い込みで作られている意識がぶれないわけがない。

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