雑記81 – 「ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由」
どこかで竹内薫さんが書評を書かれたのを見たので、読んで見ました。
とても面白い。
書き出しは、決勝戦の様子から始まり、その後経緯の説明になる。という映画的な手法を取られております。
著者はフリージャーナリストで、全米記憶力競技の取材をしていたところ、興味を抱き誘われるがまま参加することになったようです。
そして、人間の記憶というものを、歴史的、脳科学的に取材を進めると共に、古代ギリシア発祥の記憶術をマスターしてゆきます。
初めの方では、記憶を完全に固定されているもの、といった解釈だったようですが、それらが次第にあやふやなものである、という事が判明してゆきます。
そしてついには、「私たち西洋人は「自己」、つまり自分という人間の核のようなものについて、あたかもそれがはっきりと区切られている実体であるかのように考える傾向がある。」
というところまでたどり着きます。
どうもそれは今では西洋人だけではなく現代人全体に言えることなのだろうと思います。
そして、それに対しての疑問が出てきているのも現代的なものなのかとも思います。
著者が初めて記憶術を教わる時に、コーチが今度のパーティーで必要なもの、という心底どうでもいい情報を記憶させられます。
そして、それが著者の脳に刻まれてゆくと共に、読者である自分の脳にも刻まれてゆきます。
あまりにもどうでもいい情報が面白いくらいに覚えられてしまうので、思わず読んでいて笑ってしまいました。
なるほど、これは脳の生理をよく理解している。
昔の人達はどれだけ記憶、というものを大切にしたか、そして現代に生きる我々はそれをアウトソーシングしている。
どちらが優れている。という問題でもありません。実際にその記憶術を体得しても普段の生活いおいて、大きく役に立つわけではありませんん。
しかし、それを体得する。ということはそれだけで意義がある。
やってどうなる。という話ではなく、まずやってみろ。それから考えれば良い。養老孟司さんが良く言う言葉です。
ところで、今PythonでMayaのスキニングウェイトの数値を丸めるツールを作っております。
ある程度はうまくいっているようですが、やはり場合によっては細かい値が残っている。
それを調べていると、どうやらハード的な原因も含まれている、コンピュータであるかぎりは仕方のないことのようです。
面白い。結局近似なのですね。どこで折り合いを付けるか、どこで妥協するか。現実と同じです。
11.11.17 @ 11:24 AM
『ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由』
これまでに私は、さまざまなモノゴトを暗記してきた。歴史の年号、計算式や英単語、百人一首、物理法則…。
大部分は忘れてしまったし、憶えていても実生活で役に立っている …