雑記92 複雑系 その3

最近はPythonをMayaで使うことにハマってしまい、めっきり雑記をかかなくなりました。
久しぶりに気が向いたので書いてみます。

 

どうも複雑系の本を読んでいると、宗教や歴史に当てはめて考えてしまいます。
そして、宗教や歴史の本を読むと脳科学や複雑系を加味して考えてしまい、
脳科学の本を読むと複雑系についての言及が少ないことに少し物足りなさを感じてしまう。

 

どれも一つにして学問にしてしまえばいいのに。そんな印象です。
そういえば、元々科学(サイエンス)というのは明治期にその言葉が入ってきた時に既に分科した学問である。
ということから科学という名前が付いたそうです。
そのまま意訳すると知学という様になるようです。

 

前回自己組織化とべき乗則について書いたかと思います。
どちらも非常に興味深い現象です。

 

最も分かりやすいのが砂山モデルだと思います。
コンピュータ上のシミュレーションで行われた実験ですが、有限な架空の平面上にひと粒ずつ砂を落としてゆく、という実験です。
当然の事ですが、平面の大きさに比例して砂山の大きさが決まります。
そして、その砂山の出来方は初めのうちは殆ど変化はないが、グラフにするとある地点で大きく変化が訪れる。
急激に砂山が形成されてゆく。
一度それが形成されると、指数関数的な変化で大きくなり、やがて変化が全くなくなる。
要するに平面の大きさに比例した砂山の大きさになり、その後その形が維持される。
まさしくロジスティック曲線です。

 

そして、大きさの決まった砂山では大きさを維持するために雪崩が起きます。
その雪崩の大きさと頻度を対数グラフに表すとべき乗則が現れる。
毎回落ちてくる砂は一粒でも、それが起こす雪崩の大きさは予測がつかない。ということを意味します。
砂山自体の形を大きく変えてしまうほどの雪崩が起きるか、一粒の砂が落ちて終わるのか分からない。

 

これはまた自己組織化と散逸構造、というものも表しているかと思います。
散逸構造というのは開いた系を表す言葉で、物質とエネルギーの交換を表します。
砂粒という物質が落下することで維持される形である。ということで良いかと思います。
では、閉じた系とはどういうことかというと、砂粒を落とすのをやめて、その砂山を野ざらしにすることだと思います。
現実世界であれば、それは風雨の影響、動物や人間の影響を受け、やがて崩れてゆきます。
物質の交換はないが、外部のエネルギーに影響される状態、であるかと思います。
人間で言えば、死後に野ざらしにした状態で、やがて朽ち果ててゆく。要するにエントロピーは増大し続ける。

 

ここで興味深いのは、その砂山を砂山だと認識する側の問題も存在するのではないか。という疑問です。
要するに脳科学。
空気中には多数の分子が飛び回っています。その中に水の分子も存在します。
それらがある一定量を超えると、水蒸気となり我々が知覚出来る状態になります。
水蒸気がある、という状態においては、我々が知覚できないところでも存在するはずですが見ることが出来ない。
混雑した駅のホームで10人あつまれば、それを一人として知覚することができる。というように考えると同じ事なのだろうと思います。
いるのかいないのか良くわからない。突然消えたり表れたりする。そんなふうに見えたらちょっと面白そうです。

 

話がそれました。
その水蒸気が空にあれば雲となる。地上では留まることを知らないかにみえるそれは、上空では形を留めて動いているように見える。
雲の形が何に見えるか。子供はそんな事を空想します。
自己組織化は対象物で起きる現象か、脳内で起きる現象か。
子供の空想に付き合うことは出来ます。同じ物を見て同じような感想を持つ。
その雲が車に見えることもあるかと思います。しかし、車種や型番を特定されても分からない。
それは同じようなものは見えてはいるが、各個人による経験というバイアスが加わり、微分してゆくと分からなくなる。
もちろん、車種や型番を特定する。というのはネタ的な状況でしょうが、極論として取り出しただけです。
要するに、見ている形に微妙な変化が存在しうること、それを受け取る脳内で更なる変化が存在しうること、が言えるのではないか、と思います。

 

プログラムをやるようになり、感心することが多々あります。
これは日本語を母国語とする人では作ることが出来なかったものではないのだろうか。そんな事を感じます。
プログラムには変数というものが存在します。
これは普段我々が使用する言葉、より厳密に言うのであれば名詞と言っても過言ではないかと思います。

 

例えると、「りんご」という言葉に対するイメージは人それぞれで違います。
現実に存在する物事を表すにしても、人によって差異がある。日常ではそれは補正されて大抵の場合、大同小異となるかと思います。
しかし、それがはじめから形而上的な事を表していたらどうなるか。
近代科学は微分することで物事の近似解を求め、進化してきました。
思想を微分するとどうなるか、歴史的に近いところで言うと、戦後の新左翼運動、要するに学生運動に表れているように思います。
違いに目を向けると、違いしか見えなくなる。違うものを排除する方向性を持っていれば、自然と内ゲバが発生する。

 

そういえば、仏教では、カルマの負荷によって集まる五積集体である実体は輪廻を繰り返す。と言われております。
その時に同じ物が集まればそれは同じものなのか。という問に大して、
蝋燭の火を消し、再び点けた蝋燭の火は似通って入るが別のものである。という答えを出しております。
これもまさしく観測者の脳内での自己組織化の問題と、対象物の自己組織化が存在している、と言う事が出来るかと思います。

 

久しぶりで詰め込み過ぎた感じです。しかも落ちがない。
また気が向いたら書いてみます。

コメントする

post date*

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

トラックバックする

トラックバック用URL:

アニメーションが親切に解説されております

レンダリング、ライティングの基本が分かります

図版が見やすい美術解剖書です