雑記13

余談です。

 

浮世絵の美人画、というものについて考えてみました。

少なくとも自分はそうなのですが、あれを見て美人だ、と感じたことはありません。

恐らく現代の人は大概そうなのではないでしょうか?

 

当時の人は、参勤交代などで江戸に行ったお土産に買っていったそうです。

髪型や流行のファッションを地方に伝播させる役にたったそうです。

それと、色町の宣伝としても使われたそうです。

 

要するに様式に当てはめられている物の中にある、微妙な差異を見出し情報を抽出していた。

という言い方をしても良いかと思います。

 

一定のアルゴリズムやイデオロギーを介して物を表現すると、その中にいない人から見ると理解ができない。

という現象を生み出します。

しかし、そこに存在する蓄積された思想を動物的な感覚が捉える、とでも言いましょうか、

線の美しさや造形美、なんだかただならぬ雰囲気を感じてしまいます。

 

どうやら、現代においてはアニメ絵、というものが同じような形をたどっているように思います。

むしろその延長線上、とでも言いましょうか、様式美、フォーマットの中での少しの違いを楽しむ、というように感じます。

 

それで言うと、俳句や川柳など様式に当てはめておきながら、詠み手の個性を見出します。

やはり根は同じ文化だ、と勝手に納得してしまいます。

 

養老さんがどこかで書かれていましたが、江戸初期から後期にかけて春画を並べてみると、変遷が良く分かる。

と書かれていたと思います。

 

春画とは、男女の性交の様子を描いたもので、戦国時代は験担ぎと実用を兼ねて、それを持って戦地に赴いていたそうです。

 

解剖学者らしい視点ですが、時代を経るに連れて男根が大きくなっているそうです。

そして、それは抽象化が進んだ。という事につながります。

養老さんの言い方では、脳化です。

肉体から離れ、現実以上の現実を求める傾向、とでも言いましょうか、より過激になってゆきます。

 

思えば、アニメ絵というものも年々キャラクターの目が大きくなっているように思います。

一昔前のアニメなどを見ると、痛感します。

 

そう考えると、比較的初期段階から目が大きかったディズニーアニメはどうであろうか?という疑問が起こります。

古い時代のディズニーアニメを見ると、キリスト教の影響を痛烈に感じます。

 

子供がキリスト教系の幼稚園で、授業参観などに参加すると、お祈りする姿を見ることができます。

その神に捧げるお祈りの中に、「私たちの罪をお赦しください。私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救い下さい。」

と、子供が祈りを捧げます。

 

キリスト教の発展は古代ローマ帝国の衰亡期と重なります。

コミュニティを重視するローマに対して、キリスト教徒は独自のコミュニティを作り対抗したそうです。

ローマが衰退してゆくと、コミュニティが弱体化すると共に個人主義化が始まります。

 

ローマ帝国の背骨となっていたものはストア学派、と呼ばれるギリシア発祥の思想でした。

日本ではストイックという、少し間違えた使われ方をしているものの語源で、禁欲的であることは間違いないのですが、

公共奉仕を旨としている思想です。

端的に説明すると、全長30万キロにも及ぶローマの街道のうち、国が作ったものが8万キロで、地方自治体が作ったものが

11万キロ、それ以外は個人が作ったものだそうです。

その私道もただ自分の家に向かうわけではなく、流通を考えた作りになっていたそうです。

 

そんなローマ帝国ですが、背骨のもう一つの思想がエピキュリズムというものでした。

日本語訳では快楽主義、とこれも間違った形で訳されてしまいましたが、そこまで行かないにしても、生きることを楽しもう。

というもので、現代のイタリア人を見ると、どうもコチラの方だけが残ったのかな?と思わないでもないのですが(失礼!)。

 

そんなローマでは立派な人は耄碌して自分の死期を悟ると、食を断ち自ら命を断つ人もいれば、

朝から呑み喰いを始め、満腹になると奴隷に持たせた孔雀の羽で喉の奥をつつかせて、吐いたあとにまた呑み喰い始める人もいたようで、

そのだらしない部分を見て、キリスト教徒たちは文明の滅亡を唱え、アンチローマ、終末思想を発展させてゆきます。

 

そしてローマの滅亡後、その領土のほとんどをキリスト教圏にすることに成功します。

現代ではローマといえばカトリックの大本山ですね。

 

キリスト教が終末思想を持つのは、その大本であるユダヤ教にあります。

ユダヤ教はバビロニア捕囚以来、選民思想を強化していったそうです。

奴隷としてこき使われているが、我々こそが選ばれた人間たちで、現文明が滅亡した暁には我々の時代が来る。というものです。

 

しかし、面白いことにイエス・キリストという人自体はそんなユダヤ教に反発しました。

同時代人の中には、大酒飲みの大食い。と表現する人もいます。

規則や規律というものは、どうやら一度作ると増える一方で細分化されてゆくようです。

現代でも経験なユダヤ教の人は、安息日である土曜日には火を使えないので、近くに住む宗教の異なる人にお湯を沸かしてもらったりするそうです。

 

キリストは聖書に書かれていないことはする必要がない。という立場で、その細分化された規律に反発したそうです。

神殿で露天を開く同じユダヤ教の人達の店を壊したりもしています。

そんな彼を落とし入れようと意地の悪い質問をした人がいるそうでうす。

税金を皇帝に収めるべきか否か。どちらにせよ、神に歯向かうか、皇帝に歯向かうか、ということになり、殺す口実ができます。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に。」とうい答えで見事に切り抜けます。

 

これは政治力学を熟知した上での発言か、真摯に思っているからこそ出てきた発言か、どちらにせよ全く見事な答えです。

真摯な態度というのは、機知がまざるとまれにこういった現象を生み出すように思います。

明治の外交官小村寿太郎は、外交の真髄は誠実さに他ならない。と言ったそうです。

どうも自分には、それ以前にローマのストア学派と雰囲気の似た、日本の武士道というものが彼の人格の中で定着させている

もののように思えてなりません。

 

話が随分それました。

相変わらず手元に資料はないので、間違いがあるかも知れません。間違えていたらごめんなさい。

長くなりましたので、今回はこの辺で。

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