雑記3 – Sculptis -07

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東洋人の女性を作っています。

西洋人はやはり作り易いです。細かい形から大きな形を作っていってもそれなりになんとかなります。

東洋人は凹凸が少ないので、それをやるとどうもうまく形が整いません。

特にモデルはなく、細かいパーツは鏡を見ながら作っているので、自分に似てしまっているのかも知れません。

ちょっと男性的です。

 

最近すっかりSculptrisにはまっていますが、そろそろカテゴリー別にしたほうが良いように思います。

まだやってしまいそうです。

 

前回の雑記が中途半端に終わったので、もう少し掘り下げてみようかと思います。

 

自分は物事を見るときに、できるだけ西洋文明的なものを排除しようと努めます。

この行為は西洋文明を否定しているわけではなく、対象物にある多様性を見出したい、という思いからです。

 

西洋文明的な物の見方がある程度の本質を見出す道具だ、とは思います。

それは前回書いたとおり、近似値として我々に明確そうな答えを提示してくれます。

それでも近似値は近似値です。やはりそこには片手落ちな部分が存在します。

 

では、何を西洋的なものと判断するのか、ということが問題になります。

自分も明確な答えを持っているわけではありません。

ただ、現代に生まれた我々は無意識の中にそれが入っているようで、どうもそれだけだと物事の本質的な流れを見失いがちになるかと思います。

勝手な定義ですが、西洋的なものとは部分を構築し、全体像を認識する。

東洋的な見方とは全体を漠然と認識する。かと思います。

 

ただ、東洋と西洋という区切りも微妙で、ヨーロッパという西洋の対義語として東洋、という言葉があるだけで、

そこに含まれる、インド、中国、日本、アジア諸国、すべて文化が違います。

 

では、どこに共通点があるか、というと個人的には、循環、という物がテーマになっているように思います。

インド医学であるアーユルヴェーダも、漢方もその本質にあるものは循環ではないでしょうか?

アーユルヴェーダでは、気の流れ、呼吸により診断を下し、漢方では血液の流れ、脈で診断を下します。

それに対して循環機能を高める、現代医学で言うと代謝を促進し、自然治癒力を旺盛にすることで病を直します。

 

西洋医学では悪いところは切り取ります。

どちらが良い、ということではなくどちらも道具で使いよう、ではないでしょうか?

自文化の局部を切り取り、優越性を主張することは極端なナショナリズムにつながります。

それが歴史上どのような結果を生んだか、歴史を見てゆくとひどい結果をさんざん目の当たりにします。

 

自分は極端な話をすると、手相も統計学も、科学もごちゃまぜにして観察し、考えてみたらいいのでは?と思ってしまいます。

手相も統計学の一種であることは間違いないかと思います。ただ、そこに色々と人の怨念のような文化が複合されています。

 

どうも最近の考えとして、因果応報が先に立つ部分が気になります。

ここの値を増やせば、結果はこうなる。CGはまさにそれです。

これは熱力学から来ているように思います。そもそも熱力学というもの自体が、工学的な学問で、

中で何が起こっているのか分からないまま、それをブラックボックスとして、気圧と温度変化を関数化して理解したのだと思います。

その中では、分子が跳びまわり様々な様子が伺えること間違いなし、と思いながらもそれを全部計算するには途方も無い労力を必要とし、

しかも、それはシミュレーションであり、現実の未来とは異なる可能性大です。

 

しかし、前回の話でもそうですが、関数を導き出し、近似値を求めると、大概結果はそのとおりです。

そこに含まれる瑣末なこと、それを無かったものとして排除する傾向が見受けられます。

どうも個人的にはそこが引っかかります。どうやらひねくれ者のようです。

 

書きたいこととは違うことを長々とかいてしまいました。

うーん、もうしばらく続いてしまいそうです。

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