雑記52

「風呂上りのビールは美味いなぁ。」などとビールでないビールを飲んで思います。

そして、「ビールでないのにこれだけビールの味に近いものを作るなんて、日本は大した国だなぁ。」と続きます。

さらによくよく考えてみると、それが間違えである事に気が付きます。

 

そもそも発泡酒や第三のビールと呼ばれるものが作られた経緯は、ビールと分類されるものの成分構成の物に対して

税金の負担が大きいことに起因しています。

簡単に言ってしまえば、日本ではビールを好んで飲む人が多い、それに対して税金を大きく掛ければ国の財政が潤う、

ビール会社は成分を変えてその税金から逃れる。というイタチごっこです。

そして、思うことは税金とは言ってしまえば共同体の運営資金で、その共同体に所属する人たちが出し合うものだと思います。

共同体に所属する、働けない人等の分をそれ以外の人が出し合う。という構造があります。

 

古来より嗜好品に高い税金が掛けられていたのは古代ローマを見れば分かります。

その意味するところは、生活に支障のない物に関しては裕福な人々が使うもので、それらの人々はより多く共同体に対して責務を負わなくてはならない。

という事です。

 

それを日本のビールに当てはめてみます。

確かにそれは嗜好品で、なくても生きて行けます。

それから逃れる術を考える。という企業の理屈も分からないでもありません。民主主義、資本主義の精神です。

しかし、そのイタチごっこを繰り返すことで、企業と政府の騙し合いの構図が生まれます。

そして、民族的に技術屋気質の日本人は、より技術的になろうと、更なる改良に勤しみます。

斜に構えて世の中を見ると、なんともアホ臭いことを必死になってやっているなぁ、と呆れるばかりです。

 

呆れついでにもう一つ。

運転免許を取得するにあたり、大抵の人は教習所に通うかと思います。自分もそれに通いました。

そして、大抵の人はそこで、「かも知れない」運転というものを教わるかと思います。

これは、車が来ないだろう。人が来ないだろう。という「だろう」運転ではなく、車が来るかも知れない。人が出てくるかも知れない。

という考えを持ち車を運転することで、必然的に注意深くなり事故の危険性が減る。というものです。

当時釈然としない思いで聞いていましたが、後にその原因が解明されました。

 

テレビのニュースで一つの事故(事件?)を取り上げていたのがきっかけです。

車が人をはねた。というものですが、その車を運転していた人は誰でもいいので人を殺したかったそうです。

交通ルールの基本原則が、人は人を殺したくないだろう。人は死にたくないだろう。という憶測に基づいて作られていることを理解しました。

でなければ、そういった殺人の道具にもなりうる自動車と人とを白線一本で区切りを付ける意味が理解できません。

その矛盾を極力解消するべく、個人に「だろう」ではなく「かも知れない」を求めるのだと思います。

 

普通に車を運転していても、死にたいと思っている人が飛び込んできたら避けることは至難の業です。

そういえば、養老孟司さんは日本の交通事故による死亡件数は1万件で、その中に未必の故意による自殺があってもおかしくはない。

ということを書いておりました、なにせ年間自殺者3万人もいるのだから。という話です。それを考えると尚頷けます。

 

では、その矛盾はどのように生じたものか。それを考えてゆくと近代文明の立脚点という所に行き着きます。

原発もそうですが、便利な道具、文明の利器と呼ばれるものにはそれなりにリスクがある。そのメリットが大きくなればリスクも大きくなる。

人の手に負えないことは今更当たり前のように思います。

 

交通事故や犯罪では加害者、被害者遺族が、臭いものにフタをさせるように世間から解離される。というのをたまにテレビのドキュメントなどで見かけます。

以前裁判員をやった人のインタビューがありました。その方も以前に事故だか事件でお子さんを亡くされている方で、

担当した裁判も同じようなものだったそうです。その際に犠牲者の父親は、犯人に対して極刑を強く望んだそうで、それに対してかつての自分を思い起こしたそうです。

刑により人を殺したところで、何も変わらない。そんな事を仰っておりました。

もう少し、人が死ぬ、人が生きる、ということを全体で考えるべきではないのか?そんな事も話しておりました。

 

現代のマスコミや知識人と呼ばれる人たちは、大抵テレビで政治家の批判をします。

世界を見渡すとどうも他の国も大した違いは無いようです。先進国と呼ばれる国々はどこもグダグダに見えます。

北欧の制度を褒め称える人もいますが、北欧に暮らす老人のインタビューには、制度がしっかりしていて安心できるが、人との交流がなく寂しい。という人もいました。

 

日本のマスコミの歴史が浅い、と言ってしまえばそれまでですが、マスコミに批判されない政治体制というのは戦時中ではないでしょうか?

またあれを繰り返すのですが?と思ってしまいます。そうはならない、とは言ってもすでにその徴候はあるように感じます。

「この非常事態に怪しからん。」養老さんはこの言葉を二度聞いたそうです。

初めは戦時中、そして学生運動。学生たちはその時代を直接的に知らないにも関わらず、そのセリフを発し校庭で竹槍訓練に勤しんでいたそうです。

これはもはや国民性、というやつではないでしょうか?

 

政府による情報統制から逃れるべく、民主主義国家では企業による情報提供があります。

しかしこれもやがては企業による統制が入ることになります。いや、すでに入っていると思います。

だからインターネットであり、ブログであり、ツイッターなのだと思います。

 

ついついテレビでマスコミの報道の仕方などを見ていて腹立たしく思いますが、それでいいんだ。と思えば気が楽になります。

まぁ、なるようにしかならない。なるようになる。と言ったところでしょうか。

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