Sculptris – 13
気晴らしに動物と人間をくっつけてみよう。と思ったのですが、思っていたほど面白い形にはなりませんでした。
もっと経験が必要なようです。
昔絵を学んでいた頃に先生に言われた言葉が頭をよぎります。
陶芸では、轆轤と捻り、という表現方法があるそうです。
轆轤は、どんな不器用な人間でも時間をかければかけるだけ上手くなる。
ひねりは感性の問題で、時間をかけても上手くなるかは分からないものだ。
職業として選択する場合、つまらないけど確実な轆轤を選ぶか、面白いけど産みの苦しみを毎回味わう捻りが良いのか、
それはその人の選ぶ道だ、ということだったかと思います。
物を見て作るのは轆轤にあたります。
簡単に行ってしまうとデッサンです。
捻りというのは絵画で言うならば、現代絵画でしょうか。
今回のものは捻りの部類に属すると思うのですが、どうやらまだまだ抜け出せない。
と言った感じでしょうか。
なんかもっと、バーンと。とディレクターなりに言われそうです。
分かっちゃいるけどなぁ、と思いますが、なんともなりません。
物理学で言うと実在論の実験物理学と、実証論の理論物理学に相当するように思います。
実験物理学者は理論物理学者を批判します。
物理学者が数学者を批判することと似ている気がします。
式や数値でなく、そこにある事が重要なわけで、自分の目で見て感じ取る。
恐らく実験物理学者はそう言うかと思うのですが、物理学自体がもはや理論物理に移行しているように思います。
そういえば、古代ギリシアの哲学者ソクラテスも数学者を批判しました。
数に意味はない。と、
その弟子であるプラトンは数学に真理を求めていたそうです。
そのプラトンはイデアという概念を作り出しました。
簡単に訳してしまうと、真理。というものだと思います。
喩えを出していましたが、我々は暗い洞窟の中に向かっているようなもので、外にあるイデアから発せられている
光によって出来る影を見ているだけだ。
我々が普段目にするものは全てがイデアに関連付けられており、花が綺麗なのは、綺麗、というイデアに関連されており、
花が枯れてもイデア自体は何ら影響を受けることなく、存在している。
イデアを真理、と置き換えると、そんなもんかなぁ、と思えなくもないです。
そしてまた、我々は生まれる前からイデアを知っていて、生まれるときに多くの情報が失われるが、本質的な部分を理解出来ているから
お互いに言葉が通じる。とも言います。
ここまで来ると脳化している。と思ってしまいます。
人間は抽象的な表現を手に入れることで発展してきました。抽象的とは三本の木と、●●●を同一化させることです。
さらに進んで数学の代数となりました。
この同一化の機能は脳の特有の機能で、言語と金銭に顕著に現れます。
どちらも異質のものを単位で同一化させます。
言葉が通じるのはあくまでも個人の経験則で、同じりんご、という物を想像しても頭で描くりんごは当たり前のように個人で違います。
思想が発達するとそういった当たり前の差異を認めることができないようになり、争いに発展します。
養老さんが言うにはそれこそが脳化社会だ、と診断を下します。
それに対して、じゃあどうすればいいんだ、という質問をよく受けるそうですが、それこそがバカの壁だ。と切り捨てます。
要は無限大に知り得ない自然を前にたった1.5キログラム程度の小さい脳みそで考えたことを適用するべきではない。
ちょっと乱暴ですが、そういう事だと思います。
雑記を書くつもりは無かったのですが、結局雑記になりました。
女性の方はこんな感じです。
やはりこういったツールでは男を作るほうが楽しいです。
しかし、白人の骨格の綺麗さは何なのでしょう。ギリシア人は白人ではないですが、やはり骨格は日本人より綺麗だと思います。
イデアという考えが出てくるのが分かるような気がします。
だからといって卑下する必要もなく、日本のアニメと外国のアニメは違うものを表現している。と個人的には思っております。
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